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「一泊二日」 第四話

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  ◇◇◇

 お店は、すでに決まっているらしい。
 ホテルの近くに、お酒も飲める牛タン焼きのお店があるそうだ。
 きっと、私といくつもりで、洋平が調べてくれたお店なのだろう。そこに自分の妻を連れていこうとしていたのだから、洋平の倫理観も、それなりに壊れている。まさか、妻と愛人に挟まれて、こうして食事に出かけることになるなんて、思いもしなかっただろうが。

「お昼をしっかり食べたはずなのに、どうして旅行中ってこんなにおなかがすくのかしらねー」
 奥さんの、少し鼻にかかったソプラノの声は、いつも歌うように物を言う。その愛らしい声は、車の多い仙台の喧噪の中でも、するりと耳に入ってくる。

 洋平の奥さんが、こういう人だとは思わなかった。私は勝手に、生活に疲れている、憐れな主婦を想像していた。だが、実際に会ってみると、ミュージカルに登場するお姫様のような、何とも可愛らしい人だった。この掴みどころのない雰囲気が、洋平を惹きつけたのだろうか。そんなことを考えながら、横目で奥さんを眺めていると、洋平が「あっ!」と声を上げた。

「なに? どうしたの?」
 奥さんが洋平の顔を覗き込む。
「あー、お店、そういえば人数を二人で予約してたんだ! いやぁ、急に一人増えても大丈夫かなぁ」
 往生際の悪さに吹き出しそうになった。妻と愛人と三人で食事だなんて、誰だってしたくはない。どんな悪あがきをしてでも、避けたいはずだ。

 奥さんは丸顔の頬をぷーっと膨らませた。
「もう、洋ちゃんったら、心配性ね。席だけの予約で、コース料理を予約したわけじゃないんだから大丈夫よ。そのへんは私がうまく店員さんに言うから、ねっ?」
「……ああ、うん」
 洋ちゃん、撃沈である。

 お店に着くと、奥さんは店員さんに、人数が一人増えたことを伝えた。ちょうど席に空きがあったらしく、お店の人は快く、しきりのある半個室の四人席に案内してくれた。
「まぁ、良いお席じゃない! ありがとうございます。嬉しいわぁ!」
 奥さんから、花のような笑顔を向けられた若い男性店員は、満更でもなさそうにはにかむと「ごゆっくりどうぞ」と言って、去っていった。何だかもう、全てにおいて奥さんに敵う気がしない。

 奥さんが洋平の隣りに座り、私が奥さんの向かいに座った。奥さんが早速メニューに手を伸ばすと、それを開いて、私に見えるように傾けた。
「ねぇ、見て、まなみさん。牛タンのつくねですって」
「へぇー、美味しそうですね。玉子の黄身がついてるんですね」
「黄身につけて食べるのね。これ頼みましょうよ」
「そうですね。あ、牛タンシチューなんていうのもありますよ」
「あらー、トーストしたバケットがついてるわよ。どうしましょう。迷っちゃう」
「でも、牛タン焼きも外せないですよね」
「そうよねー。でもお刺身も美味しそう。あっ、見て! 三角油揚げがあるわ! 新潟の栃尾の油揚げも、福井県の竹田の油揚げも、東京で売ってるのを見つけて買って食べたことあるけど、三角油揚げは食べたことないのよー。これ有名なのよね」
「そうなんですか?」
 三角油揚げなんて、初めて聞いた。

「定義山っていうところに西方寺っていうお寺があって、その近くに揚げたての油揚げが食べられるお豆腐屋さんがあるの。二度揚げするんですって。あー、揚げたてを食べてみたかったわぁ。ねぇ、洋ちゃん、これも、頼んでいい?」
「ああ、うん。もちろん」
 虚ろな顔で洋平が答える。
 奥さんの顔は、どちらかというと、可愛らしいタヌキ顔だが、その詳しさから察するに、油揚げには目がないらしい。私もキツネほどではないが、お味噌汁の具の中では、油揚げが一番好きだ。それに《三角》油揚げなんて、今の私たちにピッタリなメニューではないか。

「油揚げにお刺身なら、地酒もいいですね」
「あら、まなみさん、いける口なの?」
「ええ、好きです」
「やだ、気が合うわね。じゃあ、日本酒も飲んじゃいましょうよ」
「そうですね。そうしましょう」
 もはや、洋平の入る隙はない。自分でも怖いくらいに、奥さんと盛り上がってしまっている。食べものの力はおそろしい。しかも、何だか少しだけ楽しくなってきてしまった。

 私と奥さんがメニューを眺めながら、あれこれ話をするうちに、注文するものが決まってきた。洋平は自己主張する気力もないようで、奥さんの言葉に「うん」「ああ」「いいよ」などと、同意の言葉を繰り返している。きっと、洋平は、今、この状況で何を食べても味はしないと思っているのだろう。
 店員さんを呼び、注文を終えると、奥さんが立ち上がった。
「お料理が来る前に、ちょっと失礼するわね」
 小さなポーチを手に、笑顔で席を離れた。私の視界から奥さんが見えなくなる。テーブルをはさんで、私と洋平の二人きりになると、場の空気が一気に重たくなった。

「どうして、こんなことしたんだよ」
 洋平が小声で私を責める。
 改めてそう訊かれると、なぜだろうと思う。もし仮に、ここで答えが出たとしても、奥さんが戻ってくるまでに、その気持ちを言い切れる気がしない。
「真希ちゃん、どうかしてるよ。おかしいよ」
 そんなことは言われなくてもわかっている。一人分の新幹線やホテルの部屋を予約した時点で、私はどうかしているし、おかしいのだ。

 何も答えない私に、洋平はイライラを募らせる。怒っている顔を眺めながら、洋平が私にこんな表情を見せたのは、今日が初めてだったことに気づく。
「こんなことして、どうするつもり?」
 洋平は吐き捨てるように言う。
「黙ってないでなんとか言えよ。本当に、アンタ一体何がしたいんだよ」

 心外だった。
 アンタ、なんて言われる以上に、今日、私が何がしたかったのか、本当は何をしていたかったのか。そんなこと洋平が一番わかっているはずだ。なのに、それをわざわざ訊いてくる。本当に、本当に心外だ。

  私はただ、二人で旅行がしたかっただけよ」
 絞り出すような声が出た。
 私がしたかったことはそれだけだ。私は三年の間、洋平の負担になりそうなことは、何も言わずにきた。奥さんと別れてほしいとか、私と結婚してほしいとか、今日だけはうちに泊ってほしいとか、そんなこと言ったらいけないってことくらい、わかっていた。だからこそ、洋平と一緒に旅行にいける、そのことが、本当に嬉しかったのだ。それなのに  

「あー、よかったー。まだビール来てなかったー」
 歌うような声がする。
 奥さんと入れ替わるように、今度は私が席を立った。
「私もいってきますね。ビールが来たら先に飲んでてください」
「はーい。いってらっしゃーい」
 奥さんの声を背に、私は化粧室に向かう。

 ドアを開けると、ツンと、ケミカルな消臭剤のにおいが鼻についた。中には誰もいない。私は洗面台の縁に両手を添え、よろけそうになる体を支えた。
 鏡を見ると、私はヘンな顔をしていた。今にもこぼれそうな涙を目の裏側で止め、唇をかみしめ、頬は強張り、鼻は小刻みに震えている。
 今の私の心に広がる感情はどんな感情なのか、鏡に映った自分を見つめても、まるでわからない。洋平の責めるような眼差しが、ぐさりと刺すように痛かった。三年付き合っていて、アンタ、なんて言われたのも初めてだった。そのことに、私は思いのほか傷ついてしまったらしい。

 私は傷口をグッと押さえるように、こぶしを握った。洋平に言えなかった言葉が、腹の底から沸き上がる。奥さんになら……奥さんになら、いくら責めたてられても構わない。叩かれても、殴られても、刺されても、仕方がない。でも  
「アンタに責められる、筋合いはないわ」
 鏡の中にいる自分を睨みつけながら、私はそんな言葉を吐き出していた。

  ◇◇◇

 テーブルに戻ると、ちょうどビールが運ばれてきたところだった。
「わー、グッドタイミング! さあ、早く座って。乾杯しましょう」
 私は慌てて座り、ジョッキを握った。
「カンパーイ!」
 鈍い音を立ててジョッキがぶつかると、空中に三角形ができあがった。
「うーん、美味しい!」

 お通しの和え物をつまんでいると、もう一つの三角形がやってきた。三角油揚げだ。大根おろしが皿の隅に添えられ、つまみやすいように、きちんとカットされている。かじると湯気が出て、豆の香りがした。
「あー、美味しい。ビールにも合うわ。早く熱燗とお刺身来ないかしら」
 奥さんがそう言うと間もなく、熱燗と料理が運ばれてきた。刺身につくねに、牛タン焼きに、牛タンシチュー。テーブルに並ぶと本当に豪勢だ。

「やっぱり三人で来てよかったわねぇ。二人だったら、こんなに頼めなかったもの」
 一人だったら、牛タン焼定食に、ビールで終わっていただろう。いや、一人の夕飯なら、わざわざ牛タンを食べになんて来ない。ホテル周辺のラーメン屋さんでラーメンを啜って終わりだった気がする。

「こうやって外で食事をすると、初めて会ったときのこととか、思い出しちゃうわよねー、洋ちゃん」
 洋ちゃん、飲んでいたビールが気管に入ったらしく、むせ始めた。
「やだ、大丈夫? もうー」
 奥さんがバッグからポケットティッシュを取り出している。仲睦まじい夫婦の姿を眺めながら、もうこうなったら、身ぐるみ剥がすつもりで、この夫婦の馴れ初めなどを訊いてみようという気持ちになった。
「ご夫婦がおつきあいするきっかけって、なんだったんですか?」
 私が訊くと、奥さんはビールのせいか、少し頬を赤らめながら話し始めた。

「お昼に定食屋さんに入ったんだけど、お店が混んでて、当時、まだ大学生だった彼と相席になったのよ」
「へー」
「お店の人が私の注文を、間違えて彼の前に置いちゃってね。それをこの人、よく見もしないで、お味噌汁飲み始めちゃったの。私、五十円増しでお味噌汁を豚汁にしてたのね。でも洋ちゃんは、普通のお味噌汁で……。口付けちゃったから、もう交換できないでしょう?」
「それで、どうしたんですか?」
「まぁ、五十円だし、いいかなって思って、おかずだけ交換したの。それが、きっかけ」
「でも、普通なら、それだけでは恋に発展しないですよね?」
 私が言うと、奥さんはクスクス笑った。

「この人ったら、食べ終わってお店を出た後、私が出てくるのを、外で待ってたの。お味噌汁のお詫びに、これからお茶でも飲みにいきませんかって」
「うわー、積極的!」
 洋平から誘ったわけか。
「私も普段はそんな誘いに乗ったりしないんだけど、何だか可愛くなっちゃってね」
「じゃあ、最初から相思相愛だったんですね!」
 私がそう言って洋平を見ると、その目が左右に泳いだ。タイミングよく、席の横を通りかかった店員さんに、洋平が声をかける。

「すいません、あの、この焼酎のロックをください。あとビールのおかわりを」
 注文を終えると、洋平は牛タン焼をガシガシかじり、残っていたビールをグイッと煽った。

 私はその後も、奥さんから二人の馴れ初めから結婚に至るまでのエピソードを聴取し、いちいち「いいなぁ」「すてきー」という相槌を繰り返した。洋平の新たな一面が明るみに出る度に、私は皮肉をたっぷり含んだ眼差しを送る。彼は私に目を背けたまま、自分の口をグラスで塞ぎ、お酒を胃の腑にどんどん落としていった。
 焼酎ばかりをおかわりし続けた洋平は、テーブルの料理が無くなる頃には、へべれけの酔っぱらいになってしまったのである。

  ◇◇◇

 「もお、やだー。洋ちゃんったら、飲み過ぎよー」
 店を出て歩き出すも、足元がおぼつかない。
 酒に飲まれることで、この状況から逃れたいと思ったのかもしれないが、酒でどうにかなるはずもない。
「荷物は、私が全部持ちます」
「ごめんなさいね、お願いできる?」
 私も肩を貸した方がいいか迷ったが、何となく、奥さんの前で彼に触れることに後ろめたさがあった。妻の肩にもたれかかりながら、歩く洋平は、まるで母親に甘える子供のようだ。

 何とかホテルに到着し、エレベーターに乗り込んだ。階数ボタンを押し、エレベーターが上昇すると、足元が浮き上がる感覚に違和感があるのか、洋平が獣のような声を上げた。エレベーターのドアが開くと、吐き出されるように廊下に飛び出し、前のめりになって歩き出した。
「ほら、もうちょっとだから、頑張って」
 奥さんが励ますと、洋平は急に正気を取り戻したように「ウン」と返事をする。本当に子供みたいだ。部屋の前に辿り着くと、奥さんが言った。

「まなみさん、私のバッグからスマホを出してもらえる? ケースの中にカードキーがあるの」
 バッグのチャックを開け、スマホを手渡そうとすると、
「ケース開けてくれる?」
「はい」
 手帳型のスマホケースを開いて差し出す。奥さんは内側のカード入れから、カードキーをサッと抜き出し、素早くドアを開けた。なだれ込むように部屋に入る夫婦の後ろについていく。暗い中、つまずいたら危ない。そう思い、私が部屋の電気を点けると、眩しかったのか、洋平が「うーん」と言いながら体をのけぞらせた。バランスを崩して、奥さんがよろけそうになる。私は持っていたバッグや奥さんのスマホをサイドテーブルに置き、洋平の体を支えた。

「大丈夫ですか?」
 洋平は、ぐでぐでになりながら、私にチラリと視線を向ける。
 すると、まるで汚れたものでも見るように、顔を歪ませた。洋平は、唸り声を上げると、向こうにいけとばかりに、私を突き飛ばした。
「ちょっと! 洋ちゃん、何するの!」
 奥さんの鋭い声が飛ぶ。
「もぉー、どーにでもなぁーれぇー」
 呂律の回らない口調で言うと、洋平はどさっと、ベッドに倒れ込んだ。
 突き飛ばされた衝撃で、私の体は壁に当たったが、痛みはない。それよりも、彼の体を支えようと伸ばした手を、洋平に跳ね除けられたことのほうがショックだった。

「本当にごめんなさい。怪我はなかった? どこも痛くない?」
 母親が子供にするように、奥さんが私の腕や肩をさする。
「大丈夫です  
「申し訳ないわ。本当に……」
 奥さんが泣きそうな顔をする。泣きたいのは私も同じだ。
「本当に大丈夫ですから、気にしないでください」
 奥さんはもう一度、「ごめんなさい」と小さくつぶやくと、口が開いたままのバッグにカードキーをしまい、手早く洋平の靴を脱がせた。足元が自由になった洋平は、グルンと背中を向け、くの字になる。こっちに向かって突き出されたお尻を、奥さんは、勢いよくペチンと叩いた。
「もうっ! この酔っぱらい!」
 澱みない奥さんの動きを見ながら、改めて私は、この人は洋平の妻なのだということを痛感させられた。

「さ、もう、いきましょう」
 奥さんは、丸みのある愛らしい頬を、少しばかり膨らませて私に言った。
「え? どこにですか?」
「このホテル、バーがあるのよ。飲み直しましょう。私、御馳走するから」
「でも、ご主人はいいんですか?」
 私がそう言うと、洋平は地鳴りのような、いびきをかき始めた。
「だって、これじゃあ、ゆっくり休めないもの……」
「それもそうですね」
 確かに、このいびきでは、テレビの音も搔き消されてしまうだろう。
 洋平を部屋に残し、私は奥さんと二人で、ホテルの最上階にあるバーにいくことになった。

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