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鶏むね肉がゴリゴリしていた話

 私は、ガッカリしていた。

 先日ネットで30分チキンなるレシピを見つけ、何だか美味しそうなので作ってみることにしたのだ。しかし、教えの通り調理してみた結果、まるで木のように固く、食感がゴリゴリの胸肉ステーキが出来上がってしまった。

 一口食べて、歯に跳ね返ってくる肉の抵抗感に、何とも言えない恐れを感じた。どんな食べ物でも、一度人の口に入れば、徐々に嚙み砕かれ、己の血肉になるような感覚があるものだ。しかし、その日食べた胸肉は、ただただ抵抗しかしてこなかった。

 私は胸肉が好きだ。
 安いうえに、工夫次第で驚くほど美味しく食べられる。ネット上には、安い胸肉を美味しく食べるべく、工夫されたレシピが散見している。玉ねぎやマイタケのペーストを作って、胸肉を漬け込んで柔らかくする方法や、低温調理や、ポン酢につけてレンジでチンして、余熱で加熱するなんていう方法もある。有り難いことに、どれも美味しく胸肉を食べることが出来た。

 しかし、最近、それらの調理法を屈指しても、固い仕上がりになることがあったのだ。胸肉をゴリゴリにしてしまうことが二回ほど続き、私の自己肯定感は、どんよりと落ちはじめていた。
 胸肉は加熱によって、その食感を左右する繊細な食材だ。自分がうまく調理出来なかったから、こんな食感になってしまったのではないかと落ち込む。命をささげてくれた鶏に申し訳なくて、思わず天を仰いでしまった。

 ケンタッキー・フライド・チキンは、年に一度、神社で鶏の供養をするのだという。私もその供養の場に潜入し、無駄にしてしまった鶏の命を、供養しなければならないのではないか。そんなことを考えてしまった。
 このままでは、ゴリゴリ胸肉のトラウマのせいで、スーパーで胸肉を手に取ることすら出来なくなりそうだ。

 本当に、私が悪いのだろうか。私がうまく調理できなかったせいで、胸肉はあんなにもゴリゴリしてしまったのだろうか。本当にあのゴリゴリは私のせいなのか。

 そんな自問自答が続いたのち、私のような悲しみに打ちひしがれている人が、他にもいるのではないかと、一縷いちるの希望を胸に、ネット検索をしてみた。

胸肉 ゴリゴリ


 検索ワードが非常にマッチョである。胸筋隆々のきょうきんりゅうりゅう歯の白いイケメンマッチョさんが、私に微笑みかけてきたような気もしたが、マッチョさんには一旦お引き取り頂き、私はモニタの検索結果をたどった。

 すると、そこにはゴリゴリの胸肉に嘆き悲しむ民の声が、溢れかえっていた。
「胸肉が硬くなってしまいました」
「ゴムのような食感に仕上がってしまった」
 など、うまく調理できなかったことへの悲しみがつづられている。うんうん、とその声に同調しつつ、私は求めていた確信の記事に辿り着いた。



 こちらは一部有料記事だが、無料で読める部分でも、ゴリゴリ胸肉が存在していることが記されている。しかも、世界全体で出回っている鶏むね肉の5~10%がゴリゴリらしいのだ。その割合の高さに驚いてしまった。
 どうやら本当に、調理法ではどうにもならない硬い胸肉が存在するらしい。

 ああ、やはり私のせいではなかったのだと、ホッとしたのも束の間、もうスーパーでブロイラーの胸肉を買うことはできないのではないかという気持ちになった。

 安いとはいえ、鶏の胸肉には当たり外れが必ずあるということだ。当たりを引けば美味しく食べられるが、外れを引いたときには、最悪、口に出来ずに捨てる羽目になる。
 しかも、この日買った鶏肉は、私が絶大な信頼を寄せる、生鮮品の鮮度も質もいいスーパーの鶏の胸肉だったのだ。あのスーパーでも、そういった胸肉に当たってしまう。その事実が、私の胸肉に対する購買意欲を一気に落としてしまった。

 特に胸肉は美味しく食べるのに工夫がいる食材だ。調理にかける手間や負担を考えても、外れの可能性もある胸肉にこだわることは合理性にも欠ける。それならば、少し高くても、もも肉やささ身、手羽元、手羽先を買った方がいい。

 調べてみると、胸肉は、小ぶりなものの方が、当たりの可能性が高いそうだ。私も、胸肉が2枚入ったパックを買ってきたのだが、小ぶりの方は正常な食感で美味しく食べられた。

 どうやら、鶏を早く大きく育てようとすることで、たまに、こういうゴリゴリ胸肉が出来上がてしまうのだそうだ。まだピヨピヨ鳴きたいのに、無理矢理大きくさせられてしまった鶏が哀れである。

 どちらにしても、食べてしまうのだから、少しくらい無理をさせてもいいだろう。そんな人間のおごりがあるのかもしれない。しかし、生き物の命を奪い、それを食べる私自身が、その奢りに憤りを感じること自体に、何か矛盾したものを感じてしまう。

 命を食べるとはどういうことだろう。

 人より食いしん坊な私が、それを考えることは罪悪感が伴う。安くて美味しい思いをしたいというのは、どこかに無理が生じるのだ。
 両立しにくいことを、両立させている歪みが、5~10%の鶏の胸肉に現れている。このまま急速な飼育を続けていけば、そのうち、5~10%では済まなくなるような気がする。それがわかっていても、必要な飼育期間を設けた高級ブランド鶏の値段を見ると、「うわぁ、手が出ないなぁ」そう思ってしまうのだ。
 私の中に、矛盾がうごめき続けている。

 自分のせいではないことを証明したくて、「胸肉 ゴリゴリ」と検索してみたものの、結果的には、何だかやるせない気分になってしまった。
 今後、スーパーで胸肉を目にする度に、私はチリチリとした罪悪感に襲われてしまうような気がする。

 命を食べるとはどういうことなのか。

 その問いが今、私の心に渦巻いている。





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