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丸っこいパンにビーフシチューが入ったやつ

 「あの、丸っこいパンにビーフシチューが入ったやつが食べたい」

 夫が華麗にそう言い放ったのは、クリスマスを、あと3日に控えた昼過ぎのことである。

 あの、丸っこいパンにビーフシチューが入ったやつ、とは、おそらく夫がテレビで見たであろう、箱根名物のシチューパンのことだ。
 せっかくのクリスマス。一緒に箱根にでも繰り出して、シチューパンを食べようよ♪ という提案ではない。あの、シチューパンを、私に再現しろというのである。

 あのね、私はシェフじゃなくて、主婦なの。そんな簡単に有名店のメニューが再現できるわけ無いでしょうよ。

 と、思いながらも、友人から教えてもらったビーフシチューのレシピを眺める。

 もしかしたら、これは良い機会かもしれない。大成功を収めた際には、夫に
「うちの妻は料理上手」
 という認識を深めさせることができる。もっとうまくいけば、惚れ直してもらえるかもしれない!

 私は、猛然と立ち上がり、普段滅多に買わない牛肉を買いに走った。

 友人直伝のビーフシチューは、缶のドミグラスソースは使わない。 全て、イチから作る本格派だ。本当にシェフのような気になって作らないと、完成しないメニューである。
 その制作期間は3日。
 なぜ3日もかかるのかと言うと、一晩、牛肉をワインに漬け込んでおく必要があるからである。初日は、玉ねぎやにんじんなどの野菜を切り、
辛口の赤ワインに一晩漬け込む。

 そして調理工程のほぼ8割は、2日目に集中している。
 体調が万全でないと乗り切れない。できれば栄養ドリンクを1本飲んで、体力を養ってから挑みたい。

 肉を小麦粉ではたいて焼いて、飴色玉ねぎを作り、トマト缶を裏ごしして、煮込みにかかる。
 煮込み時間は3時間半。
 15分おきにかき混ぜなければならない。かき混ぜる度に期待に胸をふくらませる。

「テレビで見たのと同じやつだ! すごいねぇ!美味しいねぇ!」

 夫が喜ぶ姿を想像して、思わず口元が緩む。

 しかし、3時間が経過し、徐々に不安になってきた。
 トマトの酸味ある味と匂いが消えないのだ。色も、あのまろやかでこっくりしたブラウン色のソースには程遠い。このままでは、ビーフシチューでなく、トマトシチューになってしまう。

 ビーフシチュー すっぱい

 ネットで検索してみて、解決策を探る。鬼のような形相で検索画面をにらみながら、たどり着いた方法は

 小麦粉をバターで焦がすように炒めた物を加える。

 というものだった。
 これで失敗したら全行程が無駄になる。しかし、すっぱいビーフシチューでは、夫に惚れ直してもらうことなど出来ない。一か八かやるしか無いのだ。

 溶かしたバターに小麦粉を入れる。
 バターの油の中で、小麦粉がジリジリと色を付ける。小麦粉が、ブランデーのような色になったところで火を止め、シチューの中に流し込んだ。じゅわーっと音を立てる。ぐるりとかき混ぜてみると、心もとない色だったシチューが、あの、よく見かけるブラウン色のシチューになった。味見をする。

 ……ビーフシチューだ。

 洋食屋の、レストランのビーフシチューの味がする。
 本格的なあの味を、私はこの手で作り上げることに成功したのだ。

「エイドリアーン! エイドリアーン!」


 映画、ロッキーのように、一人、やり遂げた喜びを爆発させた。シチューを冷まし、一晩冷蔵庫に寝かせる。

 3日目。
 一口大のラグビーボールのような形に面取りした、にんじんとじゃがいもを茹であげ、仕込みを終えたシチューに加える。
 あとはパン。
 さすがにパンまでは焼けないので、これはお店に頼ることにした。

 2日目の工程の難易度が高すぎたせいで疲労困憊。
 世間のクリスマスムードをよそに、フラフラになりながらパン屋へ向かい、購入し、帰宅。

 そして、くり抜いたパンの中に、温めたビーフシチューを注いだ。
 丸っこいパンにビーフシチューが入ったやつの完成である。
 赤ワインとともに、食卓へ。

「わぁー、すごいすごーい」

 夫の反応は良い。私も食べる。うまい。
 夫が楽しそうに平らげたのを見て、おかわりが来るか!と待ち構える。

 夫よ、さぁ! どんどん食べて、どんどん惚れ直してくれたまえ!


「ごちそうさまー」

は?

「おかわりは?」
「ううん、もういらない」
「いや、食べてよ。まだ、お鍋にたっぷりあるよ」
「だってビーフシチューって2杯も3杯も食べるもんじゃないもん」
「………」

 私は比較的大食いなのだが、前日までの味見の連続で、既に、もう食べ飽きていた。部屋中がビーフシチューの匂いに支配され、服にもその匂いがこびりついている。私も2杯目に手が伸びることはなく、残りは冷凍保存された。

 果たして、私は、夫に惚れ直してもらうことは出来たのだろうか。

 その答えがわからぬまま、ビーフシチューに奮闘したクリスマスはあっけなく終わり、私は息つく間もなく、正月料理の準備に取り掛かるのであった。






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