電車に揺られながら思い出したこと

まだコロナが流行る前、仕事帰りで電車に揺られていたある日のこと。

電車が止まって、野球帽を被った小柄なおじさんが乗り込んできた。赤ら顔で、少し足元がおぼつかないように思われた。

他にも席は空いていたのに、おじさんは私の隣の空席に体を押し込むようにして座った。

おかげで少し窮屈になり、舌打ちをしたい気分だった。まったくついてない。

おじさんが視線をこちらに向けた。都会に暮らしていると、警戒心が強くなる。気づかないふりをして平然を装い、話しかけてくれるなと願った。

「これ、埼玉に行く電車で間違いない?」

ぷーんと酒の匂いが漂った。私は落胆しながらも無視できず、「行きますよ」と答えた。

急行に乗り換えたいと言うので、渋谷で乗り換えられることを教えてやると、おじさんは人懐こく話を続けた。

「弟と会って飲んできたの。久しぶりだったから、楽しぐってよ」

言葉のなまりに馴染みがあったのと、おじさんがおかしな人ではなさそうなことにほっとした、それはよかったですねとうなずいた。

「弟はオレより三つ若いの。田舎からでてきて自分で会社やってよ。社長なんだから、大したもんなんだ。オレに小遣いまでくれで。これ見せっか?」

懐に手を入れたおじさんを、いいですからと慌てて押し留める。

「楽しくなっちゃって、ちょっと飲み過ぎちゃったな、今日」と、笑ったおじさんは、うれしそうだった。

渋谷に着くと、ありがとねと礼を言い、おじさんは電車を降りていった。

耳元でコンコンと音がした。振り返ると、窓の向こうでおじさんが手を振っていた。振り返すと、おじさんは笑顔で去っていった。楽しそうだったから、私の頬も緩んだ。

再び走り出した電車に揺られながら、おじさんを警戒したことを恥じ、なんだか世知辛いよなあと思った。

でも、そんな世の中でも、時々温かい気持ちになる出来事が起こったりするから、やっていけるのだろうとも思う。

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