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ファロスの見える店          底知れぬ恨み その3

【これまでの経緯】
 陶子は母が亡くなり、うなだれていたが、「底知れぬ恨み」を飲むと、もとの陶子のスイッチが入ったのか、母への恨み、兄や弟への悪口を言いたい放題いい放ったのち、店を出て行った。陶子に代わって美咲が帰ってきた。


 赤いランプの明滅と緊急ブザーに四階のナースセンターに緊張が走った。
「美咲さん、あなたも四一四号室に行きなさい」
 看護師長からの命令が下った。
美咲は、はいと大きな声で返事をすると、陶子の母親の病室に急いだ。担当の看護師がお母さんの脈を確認すると、院内電話で主治医に緊急事態発生の連絡をする。間もなく駆けつけてきた担当医は直ちに心肺蘇生処置の指示を出した。


その間、美咲はナースセンターに取って返すと、陶子に、母親の急変を告げる連絡をし、すぐに来院するよう伝えた。
『今すぐは無理よ。あたしだって大切な入院患者さんがいるのだから。兄がいるからそっちに連絡してちょうだい。電話番号を言うから、ちゃんとメモ取るのよ、いいわね。〇九〇―××××―△△△△』
そのあと電話はブツリと切れた。
美咲は言われた番号に連絡すると、男のひとが出て、『ええっ、お母さんが』、と大袈裟に驚く声が受話器越しに響き、
『母は大丈夫なんでしょうね。陶子は、妹は心配ないと言ってたけど、陶子はいったい何やってんだ。わかりました、すぐ伺います。場所は、M駅を……、はい、はい……』


 連絡を終えた美咲は、すぐに病室に戻り、主治医と担当看護師の指示に従い医薬品や処置道具を用意するために、出たり入ったり忙(せわ)しなく立ち働いた。
そうする間に、陶子の兄は着の身着のままの姿で、母親の病室に飛び込んできた。ベッドの傍に跪(ひざまず)くと、
「お袋、俺だよ。目を開けてくれよ。頼むよぉ」
 甘えるように叫ぶと、周りのひとがビックリするほど大きな声でワーワーと泣き出した。その声が廊下中に響き、何事かと、隣や向かいの病室の患者さんたちが飛び出してきたほどだった。


息子の泣き声が母親に届いたのか、それとも蘇生処置が効いたのか、冥界の入り口でさ迷っていた母親の両目がカッと見開くと、誰の支えもなしに上半身をヒョイと起こした。
「めそめそするんじゃない! あなたはお兄ちゃんでしょ。しっかりなさい!」
「うん、わかった。もう泣かないよぉ」
ベッドの周りにいた医者も看護師も母親の執念とでもいうのか、そのすさまじい姿を見て身を固くした。美咲も病室の隅で恐る恐る様子を窺っていたが、母親の声に背筋がグイと伸ばしたほどだった。


息子を叱責した母親は、その後重たい頭をガクンと落とすと、そのまま息を引き取った。それは、あっという間の出来事だった。
陶子の兄は母親の叱責が効いたのか、泣き声は収まったが、ベッドの傍でひくひくしながらうな垂れ突っ伏したままだった。
「ぼくが悪かった。目を覚ましてくれよ、お袋。お願いだよー」
 甘えた声を出し、死んだ母親に訴え続けた。


 陶子が病室に飛び込んで来たのは医師も看護師もいなくなり、それからしばらくしてからだった。物音に振り向いた兄は妹とわかると、
「お前はお母さんが危篤だというのに、どうしてすぐに来ないんだ。母さんは死んだぞ」
 兄は妹を怒鳴り散らした。


「来るなり何よ。兄らしいこと何にもしないで、偉そうなことを言わないで。あたしはね、お父さんが亡くなった後も病院を引き継いで、その後もずっとお母さんの面倒を見てきたのよ。あんたは何をしてくれたというのよ。さっさと家を出て行ったきり、家族のことはほったらかし、お父さんやお母さんの誕生日に贈り物のひとつでもした? 母の日にお花の一本でも送ってきた? お父さんやお母さんの面倒、少しでも見てくれた? お父さんが死んだときだって、面倒な手続きはみんなひと任せにして、なんにも手伝わなかったくせに、喪主は自分がすると言い張り、本当は、あたしがするべきだったのよ。お母さんの死に際に間に合ったぐらいで、偉そうなこと言わないで」


「そういう問題じゃないだろう。お母さんが危篤なんだぞ。最後は子供として臨終に立ち会うべきだろう。それが子供として、ひとのだな」
「何もしなかったひとに、ひとの道理の云々をいう資格なんてないわよ。ふざけないで」
「お前は子供のときから口ばっかり」
「あんたこそ何よ。もう、兄とは思わない」


売り言葉に買い言葉、普段の不仲が高じたのか、後は兄妹げんかというより、壮絶な言い争いになった。兄妹ふたりの聞くに堪えない罵(ののし)り合いは延々と続き、その声は病室の外にまで響き渡っていた。しかし、それを止めることのできる母親は、死んでもういない。

美咲は耳を塞いでいたかったと、陶子の母親が死んだ時の様子を話し終えた。
「陶子さんはここへ来た時、へとへとに疲れ切っていた。お兄さんと相当やり合ったあとだったんだね」
「美咲ちゃんも大変だったね。本当にお疲れさま」
 壮介は美咲をねぎらった。


美咲は陶子の母親のことがあってから看護師長に呼ばれた。
「昼夜連続の厳しい勤務の連続だったと思うけど、立派な看護師になってくれたわね。今日までよく頑張りました。明日からは通常勤務に戻っていいわよ。大変お疲れさまでした。でも、これからも気を緩めないで、皆さんのお手本になるように頑張ってください」
 看護師長はにっこりと微笑んだ。


美咲は看護師長から思ってもいなかったねぎらいの言葉に感極まり涙が出そうになった。しかし、それをぐっと堪えると看護師長に、ありがとうございます、と礼を言うと、そのまま従業員用の化粧室に走った。鏡に映った自分の顔を見ると、泣き虫だった美咲はもういない。晴れやかな表情をしている自分がいた。
――美咲、やったね! よく頑張った。
こぶしを握ると、自分で自分を褒めた。
                         つづく

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