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大好きな人と会った時、テンション高くありたい。なのに……

先日、お世話になったかつ大事で大切で大好きな人達に会った。今まではzoomなどオンライン上でしか話したことがなく、直接会ったことがなかった。

会う約束をしてから半年以上を要して、その間も定期的に連絡をして、常に直接会った時に何を話そうかと考えながら、ワクワクして過ごしていた。会う日まで1か月を切った時、私の想いは溢れに溢れてTwitterにてダダ漏れになるぐらい楽しみすぎる状態になっていた。

140字ギリギリで思いの丈を毎日のように書き連ねていた。よく飽きないな、と自分でも思う。

そしてようやく、ついに会えたんだ。


会う直前まではドキドキしていて、心臓が口から出てしまうのではないかという気持ちだった。しかし会ったその瞬間に、私のテンションは一気に落ち着いた。
初めて見る生身の相手に、「本当にいるんだ」と思った。私は「本物だーーーー!?!?!?🤯嬉しいっっ!!!!😇そして涙……😭」という感情の洪水みたいなリアクションになるのではないのかと、想像していたのだが……。

久しぶりに話をしている時も私のテンションは常時落ち着いていた。よく会う人と普通に会話しているテンションだった。ちょうどその時にものすごい疲労状態かつ、ものすごく空腹だったのも、少なからず影響しているのかもしれないが。

最後に、事前に用意していた想いをしたためた手紙(3000字以上/便箋8枚)をその人達に渡した。封筒がパンパンになるぐらい相手への想いが強いのに、直接会ったらテンションが落ち着いてしまうのは、やはりおかしい。

会いたい人に会えたのに、私は嬉しくないのだろうか。どうしてその嬉しさを表現できないんだろう。


あぁ、そういえば、親しい人と待ち合わせをした時も私はそうなっていた、と気付いた。待ち合わせは楽しい。ドキドキする。場所に着いて相手を待っている時が一番感情の昂りを感じる。しかしやって来た相手と話した瞬間に、その昂りは一気に収まる。会う直前までが感情のピークなのだ。たとえどんなに好きな人であっても。

大事な人達と会った同日に、友人達と久々に会うことにもなっていた。しかし、普通に会話が成立した。「久しぶり!」と言えて、私のテンションも高く、その後も自分の言いたかったことを言うことができた。この違いは何?


ところで私は以前、嬉しさを感じた時の反応について考えていたことを思い出した。

もしかして、私の脳の処理が追いついていない可能性があるのではないか。以前片思いの相手と会った時に、「会えて嬉しい!」等と相手にポジティブ感情を見せようと意気込んでいた時もあった。しかし会った瞬間、言いたかったこと全てが飛んでいき、落ち着いてしまい、普通に話をしてしまう。別れてから「あ、言ってない!」と気付いて後悔したのだった。

このことを思い出したとき、親しい人との待ち合わせにて、その人のことをどう思っているかで私の反応が違うことに気付いた。大体の人達は会っても普通に話せるのだが、一部の友人や片思いの相手とは上手く話せない時がある。

上手く話せない人達に対して、私は「好きすぎてどうしようかと思うくらい好き」であることが多い。想いが滾りすぎて、その人に「好き」だと伝えたいぐらい好きでなのである。
大体の人達も、もちろん親しい間柄なので好きである。でも、想いが滾って「好き」と言いたいという気持ちにはなりにくい。


また、相手に感謝したい時、心を込めて言いたいのに気持ちが追いつかなかったことがあった。感謝の言葉を発しても、心が言葉に乗っておらず薄っぺらく感じてしまった。私はそれを「感情の遅延」と名付けた。

実は、今回お世話になった大事で大切な大好きな人達に会うきっかけが、この感情の遅延を自覚した時だった。ちょうどオンライン上でその人と話していた時だった。直接会って話せば、感情の遅延が発生せず気持ちを伝えられるのでは?と思ったのだ。結果は違っていたけれど。


以上のことから、私は「会った瞬間に感情の昂りが落ち着いてしまう」というわけではなく、「会った瞬間に感情の昂りが振り切れてしまって、脳の処理が追いつかなくなる」状態になっていると推測できる。

確かに会ったその瞬間、目の前で巻き起こっていることを、ただ目で追いかけることしかできなかった。通常なら目の前の出来事を受け止めて意味を理解するまでに時間を要さない。しかしその時の私は、目の前の出来事の意味を理解するのが追いつかず、キャパオーバーして思考停止してしまった。なので言いたかった言葉も出てこず、どうにかして声を口から出すと「えっ」や「あっ」などの、言葉にならない言葉が多く出てきていた。

話をしている時も、「これを話したい/聞きたい」という考えに至らず、どことなく私の話は拙く散らかっているような感じであった。何も考えずに話している状態に近かった。実際思考停止しているのだから、何も考えられなかったんだろう。

それでも当日私の感情がどうなるか分からないということを考慮して、前日に「話したいことリスト」を作って相手に送っていた。貴重な機会だ。次に会えるのがいつになるのかも分からない。有意義な時間にしたい。その策は功を奏して、相手から話したいことリストの話を振ってもらえた。ナイス、前日の私。


街中でよく見る、待ち合わせしていて相手が来た時に、「キャー!!!!」と大げさ過ぎるぐらい騒いで抱きしめ合って喜んでいる人達を見て、まるで生き別れの兄弟とでも再会でもしたのかとやや冷ややかな目で見るのと同時に、羨ましいとも思った。私にはそんな反応ができないからだ。即座に反応できないのが残念でならない。

でも確かに会えて嬉しいのだ。私は待ち合わせしていた人と別れて一人になってから、出来事を思い返して「会えて良かった」「嬉しかった」という気持ちに徐々になっていくことが多い。出来事を何回も頭の中で反芻しながら、じわりじわりとその時の気持ちがついてくる感じである。

だから今日の出来事も何度も思い返し、じわりじわりと嬉しく感じてくるだろう。実際、会って数日経ってから、出来事を思い返したりもらった物を眺めたりしながら「会えたんだ……」と今嬉しく感じている。ずっと会いたかった人に会えた時に、嬉しさを即座に感じられるようになれたら一番良い。でも私はそういう人なんだ、と思うことにした。

会うまでにしたためた、ありったけの愛を込めた、想いがはちきれんばかりの手紙が、即座に反応できなかった私の感情の代わりになってくれているだろう。即反応できなければ、事前に準備しておくといいのだ。ポジティブ感情の表現方法も、書くと表現しやすかったり、話した方が伝わりやすかったりする等、人によって違うのかもしれない。

ということは、私は感情の表現において、「書いて伝える」ということが非常に向いていると言える。自分の得意な伝え方で、相手に想いを伝えていきたい。


私は「相手に直接気持ちを言う」というのが、気持ちを伝えるのに最適な方法だと信じて疑わなかった。私は直接言うことへのこだわりがとにかく強い。しかし直接言えないことが多いのだ。

こうやって内省して分かった。嬉しすぎて感情が振り切れて、無になっている。無になっている状態を見て、どうか相手が私が喜びすぎていると読み取ってほしい。読み取るのは難しいだろうか。即座に嬉しさを表現できないが、これも私にとっては喜びの表現の一種なんだ。

でも、即座に嬉しさを表現することを諦めたくない。会う時の心身のコンディションを整え、内省も続けて、これからも模索して精進していきたい所存である。

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