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「ちびくろ・さんぼ」がたどった道。

TOP画像:@kotonoha_books - Xのキャプチャ画像より

https://x.com/kotonoha_books/status/983126699574378496

インドに2週間弱行ってきました。旅の途中で「動物園にホワイトタイガーを見に行かないの?」と言われ、「虎→虎のバターのホットケーキ→ちびくろさんぼ」という順で、「ちびくろ・さんぼ」の事を思い出しました。

「ちびくろ・さんぼ」が元はインドが舞台、という話はどこかで聞いてしっていました。しかし日本でもっとも流通している挿絵では、サンボはどうみてもアフリカ系の少年です。

↑私が最初に読んだものも、岩波書店版(左)のこの挿絵のものでした。

↑憧れまくった、虎のバターのホットケーキ。

「ちびくろ・さんぼ」は差別的表現があるとして、1度日本で絶版となっています。紆余曲折の経緯がある作品としても有名です。

複雑な道をたどった「ちびくろ・さんぼ」のこれまでを、1度ちゃんと確かめたいと思っていました。私のインド熱が冷めないうちにと思い(笑)、「ちびくろ・さんぼ」が来た道をしらべてみました。


■原作者はイギリス人。舞台はインド

「ちびくろ・さんぼ」の原作タイトルは「The Story of Little Black Sambo(黒人の子ども・さんぼのおはなし)」。原作は文章も挿絵もヘレン・バンナーマン(Helen Bannerman、1862-1946年)というイギリス・スコットランド出身のイギリス人によるものです。初版は1899年10月、イギリス・ロンドンにある出版社「Grant Richards」から出版されました。

<原作者 ヘレン・バンナーマン>

Photo: Wikipedia

ヘレン・バンナーマン(旧姓「ワトソン」)は1862年2月25日、スコットランド・エディンバラで生まれました。父ロバート・ワトソン(牧師)と母ジャネット・ワトソンの4子(長女)であり、父の仕事の都合でヘレンは2歳~12歳までの10年間、ポルトガルのマデイラ島で過ごしました。

原作者Helen Bannermanは日本語では「バンナーマン」と表記されることが多いので、ここでも「バンナーマン」と書いていますが、イギリス発音では「バナーマン」の方が近いです。

スコットランドで女性が大学に入学することができるようになったのは1892年。ヘレンが10代だった当時、女性に大学進学の道は開かれていませんでした。彼女はセント・アンドリュース大学のLady Literate in Arts(女性準学士号)を取得。1889年にスコットランドの軍医であったウィリアム・バーニー・バンナーマン(1858年7月6日 - 1924年2月3日)と結婚。ウィリアムは結婚前にもインドで勤務した経験がありましたが、再びインドに配属となったため、夫妻は結婚した年にインドにタミル・ナードゥ州マドラス(現在のチェンナイ)に転居しました。そして夫妻はインドで4人の子どもをもうけました。

余談ですが…日本に黒船が来航したのは1853年。この絵は1856年、ペリーと日本側の交渉の模様だそうですが、この時期に生まれたヘレンが、1800年代にすでに「海外赴任」していると思うと、いろいろ思うところがあります。そういう時代にインドを見た人だったわけです。(画像:Wikimedia Commons

バンナーマン一家は1918年にスコットランドに帰国。つまり29年に渡りインドで暮らしました。

■主人公はインド・タミル人の少年

「ちびくろ・さんぼ」の原作本「The Story of Little Black Sambo」(以下「原作本」または「さんぼ原作本」と表記)がイギリスで出版されたのは1899年です。ヘレンはこの物語を、自身が暮らしていた南インドを舞台に、タミル人の少年を主人公に書きました。

初版は1899年10月、イギリス・ロンドンにある出版社Grant Richards社から出版されました。初版の装丁はこちら↓なのですが…

1899年に出版された原作本「The Story of Little Black Sambo」初版本。
Photo: Helen Bannerman, Public domain, via Wikimedia Commons

とてもシンプルな装丁です。これには訳があります。「さんぼ原作本」は1897年にGrant Richards社が刊行した子供のための短い物語シリーズ「Dumpy Books for Children」の1冊として出版されました。1897年から1904年まではGrant Richards社が出版し、その後Chatto & Windus社が引き継ぎ1904年から1908年まで刊行されたシリーズです。合計40冊から成るシリーズですが(※)、「さんぼ原作本」はシリーズ4冊目にあたります。そしてGrant Richards社が刊行した同シリーズの本はすべてこの装丁なので、「さんぼ原作本」だけがこのシンプルな装丁だったというわけではありません。

※40冊プラス数冊あった?という情報もあります。

Chatto & Windus社が引き継いだ後、1905年に出版された「さんぼ原作本」の装丁。Grant Richards社がシリーズを手放した後、新装丁で再度出版されたようです。画像出典:ebay

現在調べられる範囲では、「さんぼ原作本」はヘレンの著作第一作のようです。どんな経緯でヘレンはGrant Richards社と繋がり、出版に至ったのかは分からないのですが、さらにリサーチが進んだらこの記事に加筆します。

■原作本の挿絵もヘレンが描いた

「さんぼ原作本」は、挿絵もヘレンが手がけました。

画像:Rare & Antique Booksサイトのキャプチャ 1899年11月発行の初版 第二刷
画像:Shapero Rare Booksサイトのキャプチャ。

こちらのサイトから貴重な原作本の挿絵、4枚が見られます。
Sapero Rare Books

https://shapero.com

ヘレンが描いたさんぼを見て「インド・タミル人の子ども」とすぐに判別できる人はいないと思います。しかし、後年、日本で流通した「ちびくろ・さんぼ」の挿絵と違うことは分かるでしょう。

「さんぼ原作本」を手掛けた後も、ヘレンはおそらくインドを舞台とした子供向けの物語をいくつも残しています。

ロンドンの出版社「 James Nisbet & Co, Limited,」から出版されたヘレンの第2作「黒人の子ども みんごのお話(Story of Little Black Mingo)」(1901年)。この「みんご」の物語は日本語版もでていますが、挿絵は村上勉が手がけました。
画像:David Miles Booksのサイトのキャプチャ

■アメリカ版「ちびくろ・さんぼ」、アフリカ系少年版が多数出版

イギリスで出版された「さんぼ原作本」は海を渡り、アメリカで出版されました。

アメリカ版の初版は1900年、Frederick A. Stokes社(アメリカ・NY)によるものです。この版ではヘレンのオリジナルの挿絵が使われました。

Frederick A. Stokes社版。画像:Wikipedia
画像:University of Florida’s Baldwin Library of Historical Children’s Literatureサイトのキャプチャ

ここから様々な挿絵を使った版がアメリカで出版され、著作権がきちんと処理されていない「海賊版」も多数出版されました。原作の物語が書き換えられ、舞台がインドから、アメリカ人により理解されやすいアフリカのジャングルに置き換えられたり、さんぼのイラストもインドの子どもではなく、アフリカ系の子どものような容姿の版が多数出版されました。

1908年、Reilly & Britton社が出版した版。挿絵は「オズの魔法使い」の挿絵画家として知られるJ. R. Neill。画像:Wikipedia
1942年、The Saalfield Publishing Co版。イラストを描いたのはEthel Hays。画像:Biblioサイトのキャプチャ

その中の1冊が、1927年にMacmillan Publishers社(イギリスの出版社のアメリカ法人)フランク・ドビアスが挿絵を手掛けたこちら↓の版です。

1934年、Macmillan Publishers社版。アールデコ風のイラストとデザインが特徴です。Photo: Brian DiMambroのキャプチャ画像


1934年、Macmillan Publishers社版。Photo: Brian DiMambroのキャプチャ画像


1934年、Macmillan Publishers社版。Photo: Brian DiMambroのキャプチャ画像

日本人にとって見覚えがある挿絵ですが、この版ではさんぼは完全にアフリカ系の少年として描かれています。

■原作者に入ったお金はたった5ポンド

アメリカでも大ヒットし50以上の版が出版された「さんぼ原作本」でしたが、海賊版も多かったことからヘレンが「さんぼ原作本」で大きな利益をあげたことはなかったようです。原作者ヘレンの手に入ったお金は最初にロンドンのGrant Richards社で出版した際に受け取った5ポンドのみ。1899年の5ポンドは、現在の価値で530ポンド(約10万6000円)にあたります。

つまり「さんぼ原作本」は版権コントロールに失敗した作品だったのです。

■日本で最初に出版された「ちびくろ・さんぼ」は米Macmillan Publishers社版をもとにしたもの

日本で「ちびくろ・さんぼ」を初めて翻訳・出版したのは岩波書店です。1953年(昭和28年)、Macmillan Publishers社版をもとにした版が出版されました。1話と2話がおさめられており、1話の挿絵はMacmillan Publishers社版同様フランク・ドビアス、2話は漫画家の岡部冬彦が手掛け、光吉夏弥が翻訳および文章の改定を行いました。

当時日本ではこのさんぼの物語には著作権がないとされたため、岩波書店以外からもたくさんの出版社がこの物語を出版しました。タイトルは「ちびくろサンボ」としたものが多かったようです。岩波書店版は100万部を超える大ベストセラーとなったため、日本では「さんぼはアフリカ系黒人の子ども」であり、フランク・ドビアスの挿絵がオリジナル、という印象が根付きました。

■1960年代、イギリス・アメリカでの「差別的な表現」との指摘。

イギリスやアメリカ等、広く英語圏で読まれてきた「さんぼ原作本」でしたが、1950年代からの公民権運動および人権差別への意識の高まりによりこの本は批判されるようになりました。第1の理由は、黒人に対するステレオタイプ(黒い肌、くりっとした丸い目、分厚い唇、強い巻き毛の髪)の表現が使われていたことです。加え「さんぼ(Sambo)」という呼び名も問題がありました。スペイン語の「Zumbo(アフリカ系の人に対する蔑称)」が語源であり、アメリカ英語ではアフリカ系およびネイティブアメリカンにルーツを持つ人を指す、軽蔑的な意味合いを含んだ言葉として南北戦争後に広く使われた言葉だからです。

イギリスやアメリカで「さんぼ原作本」が法律的に出版禁止になったことはありませんでしたが、主に「黒人に対するステレオタイプな表現」への批判が理由となり、1960年代~自主的に図書館や書店の棚から消えていきました。

その後、差別的表現を抑える改定が加えらた版が出版され、今でも英語版「さんぼ」は購入可能です。しかし自主回収/棚からの撤退以降、英米においては「広く読まれている」絵本ではありません。

■1988年、日本で「絶版」の動き

1980年代に入ると、日本でも差別用語に対する意識が高まりました。「ちびくろ・さんぼ」絶版の動きの引き金を引いたのは、1988年のアメリカ「ワシントン・ポスト紙」の記事です。

黒人に対するステレオタイプな表現が日本では今なお使われている事を批判した記事です。その例として、日本版「ちびくろ・さんぼ」(および「ちびくろサンボ」)、サンリオ社のキャラクター「サンボ」、ヤマトマネキン社製造の黒人マネキン等があげられました。

サンリオ社は素早く対処し、「サンボ」キャラクタ―商品を絶版に。また記事で批判されていなかったものの、タカラ社は60年代の人気商品「ダッコちゃん」の商標登録を廃止しました。

実は「ダッコちゃん」は黒人の子どもをモチーフにしたものではなく、日焼けした日本人の少年をモチーフとしたものだったそうです。しかし批判の波にのまれるのを避けるため、自主的に販売を中止するに至りました。

↑タカラ社の「ダッコちゃん」。ネーミングが大変キャッチ―。60年代に大ヒットしました。「ちびくろ・さんぼ」絶版時にはもうトレンドの商品ではなくなっていたので、絶版にしやすかったかもしれません。

こうした流れの中、批判回避のため「ちびくろサンボ」を出版していた各社(小学館、学研、講談社等)が絶版を決め、その後岩波書店の「ちびくろ・さんぼ」も絶版が決定しました。

こうして70~80年代の日本の子どもたちが読んだ「ちびくろ・さんぼ」は書店や図書館の棚から消えていったのです。

■日本での再販のうごき。2005年~

1953年の岩波書店版の初版発行から50年がたち、岩波版の版権が消滅した後、再販の動きが見え始めました。2005年、岩波版「ちびくろ・さんぼ」を、翻訳者の権利保有者の承諾のもと、瑞雲社が再販しました。

径書房も2008年に「ちびくろサンボ」のタイトルで出版していますが、これは岩波版をベースにしたものではなく、その原本であるMacmillan Publishers社版をかなり忠実に再現したものです。同社サイトには詳細に事の経緯を描いていますが(→コチラ参照)、その内容は、岩波書店と瑞雲社に対し、なかなか辛辣と言えるでしょう。

この径書房は↑この「ちびくろサンボ」を出版する9年前、1999年6月1日に2冊の本を出版しています。1つは「さんぼ原作本」にもっとも忠実な日本語版といえる「ちびくろさんぼのおはなし」(灘本昌久・訳)です。この本は、原作者であるヘレン・バンナーマンの挿絵を使っているので、さんぼはインドの子どものままです。

画像出典:「Amazon JP」サイトのキャプチャ

もう1冊は、上記「ちびくろさんぼのおはなし」を訳した灘本昌久氏が著した「ちびくろサンボよすこやかによみがえれ」↓です。

画像出典:「日本の古本屋」サイトのキャプチャ

「さんぼ」関連本を3冊も出している径書房は「さんぼ」に対する思入れがある出版社なことが分かります。灘本昌久氏は京都産業大学文化学部教授であり、差別問題の専門家です。「さんぼ」に対する深い考察の上で、2冊を上梓しています。

灘本氏が寄せている文章はこちらから、講演の記録はこちらから読むことができます。

灘本氏の文章からの抜粋
「こうした『ちびくろサンボ』批判の歴史に、私はアメリカ黒人の苦闘の歴史を読みとるのであるが、そのことは『ちびくろサンボ』を人種差別であると断じて葬り去ることとはまったく別のことがらである」

「なぜ『ちびくろサンボ』か 読まれることこそ重要」 灘本昌久

■おわりに

ヘレン・バンナーマンの「さんぼ原作本」の出版から日本の動きまで、「ちびくろ・さんぼ」はさまざまな経緯をたどった本であることが分かります。

日本の絶版・再販については、私の中でモヤっとする気持ちがあります。

私は岩波書店版(1953年初版)を子どもの時に読み、強い印象を受けました。当時多くの子どもたちが虎のバターのケーキに憧れたことからも、この本が「子供の心を掴む本」であることは確かです。

フランク・ドビアスの絵の魅力、岩波版がMacmillan Publishers社版そのままにではなくイラストをしぼってシンプルなデザインにしたこと、翻訳の力等、いろんな要素があったと思います。そして優秀な編集者が作った本なのだろうとも想像しています。

しかし黒人に対するステレオタイプな描き方、「さんぼ」という呼び名が問題になった過去は、日本で葬り去れていることについては残念でなりません。また日本語の「ちびくろ」という言い方も私は気になっています。白人の子どもを「ちびしろ」とは言いませんが、「ちびくろ」は「くろんぼ」という以前はよく使われていた黒人に対する差別用語との関連性を思いださせます。どうかんがえても差別的な響きを帯びています。

黒人の子どもを今「ちびくろ」と呼んだら、それは明らかな差別として問題になるはずです。

「さんぼ」を再販した各社にはさまざまな思いと再販に踏み切った理由があるはずです。しかし読む側にそれが伝わらないと、読者はただ「可愛い本だから」「懐かしい本だから」という思いだけで再販本を購入し、何事もなかったかのように読み継がれてしまいます。

そして読んだ子供は「ちびくろ」という語呂の良い言葉を覚え、どこかで使ってしまうかもしれません。

それで良いのだろうか?という点が私のモヤモヤです。

絶版→再販の経緯は、差別の歴史や意識の変化の歴史だと思うので、もっと知られてほしいと思います。

せっかく経緯をたどったので、私自身もこの点についてさらに考えてみたいです。(完)

参考文献:
たくさんの資料(主に英文資料)を参考にしましたが、日本での「絶版」についての経緯は、下記文章を参考にしました。
差別語規制とメディア--『ちびくろサンボ』問題を中心に」加藤夏希・著












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