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新月の夜

「あのおじさんも絶対行くよ」

父が私の後ろに並ぶおじさんに声をかけて戻ってきて言う。地下鉄を降りて、久しぶりにバスに乗った。

行き先は、
商店街とも呼びにくい冷たい風の通るバス通り商店街に
暖かな明かりを灯す小さな居酒屋「炭火焼酒場 蔵」

席はカウンターのみ。 
明るい素敵なご夫婦(ゆうさんとこずえさん)で回している、実家の行きつけのお店である。

暖簾をくぐると、すでに二客。
銭湯帰りのおじさんと仕事終わりのおじさん
皆、蔵での父の飲み仲間だった。

駅前のバス停から一緒だった父と同じ名前の「しろうさん」もやはり入ってきた。

バス停で声をかけたが気付いていなかったようで笑い話になる。

さあ、一杯目はちょっと凍っているくらいのキンキンの生ビール、最高。
お供はきらきらの梅水晶。

奥に座る銭湯帰りのおじさんはお風呂セットを掲げて見せびらかしている。
一人旅で京都へ行った時、貸切状態の銭湯を楽しみ
ほかほかの体でお風呂セット片手に
寝るだけのゲストハウスへ帰った時の冷たい夜の京都の街を思い出す。

電車のように繰り返す入退店のリズム。
まるで、「銀河鉄道 蔵」だった。
停車して降車したと思ったら、乗車してくる。

愉快なおばさん、浜田山からバスで通ってくるおじさん 、
テイクアウトのお姉さん、家のお向かいのFさんご夫婦 、剣道の青年
次々と乗り込んできた。
しろうさんは途中下車して再乗車。

車内は満員電車ではなく、ちょうどいい密度、暖かい。

そして、私はマスクから顔が出ているから顔がでかいんだと言いながら
隣に座ってきた75歳のお母さん。
それはプリーツマスクをアベのマスクのように
広げずに付けているからだと皆んなで突っ込んだ。

日本酒を飲んでいたと思ったら今度は楽しそうにワインを飲みはじめた。
最近旦那さんの勤務地が遠くなり、
食事を済ませて帰るようになってから
蔵に来てみて75歳で外でお酒を飲む楽しさを知ったと言う。

戦後で恋愛結婚ではなく、ずっと共働き、外食を一切してこなかった。

そしてまだヘルパーのお仕事をされている。
障害を持った60代の子を持つ90歳の老夫婦は、
子供より先に死ねないと言うそうだ。

お母さんは妊娠をした時、食事、生活、とにかく気をつけ、自身がどんな状況になっても薬も一切服用しなかった。
ただ、健康な命を授かる為に。
現代の「命」の扱いについて話す。

お母さんは、イレギュラーな注文をしていたり、注文する時も、
待つ時も、食べる時も、いつも瞳が見えないくらい笑顔で本当に楽しそうだった。

私は、「自由」について考えた。

父は少し離れた席のお向かいのFさん(DIYが凄い)に外壁の相談をしている。

車内を行き交う声。

串を焼き、真剣な表情で安全運転をするゆうさん。
時々車内に笑顔を見せる。

ここの炙りレバー、ゆうさんの焼くぷりぷりのなんこつは本当に絶品だ。

美味い酒と美味い串が、
乗車客の理想の皮を溶かし、
普段見えない部分が顔を出す。
楽になる。
表情豊かになる。

背景も何も知らない、
世代も違い、
交わりのない、
ただ同じ時を生きる人たち。

昨日は新月。
皆こずえさんの小鳥のような明るい声をふくんだ暖かな店の明かりに導かれた。

化粧室へ行くたび検温・消毒をし、
その度どんどん体温が上がっている!と言う父。
やはり、「幸せ」というものの温度は高いみたいだ。

あまりにも乗り心地が良く、

小一時間のつもりが結局私達は3時間も揺られ、ようやく降りた。

まだ乗っていた人たちは皆どこまで行ったのだろう。

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