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パリで養子を考えるまで(1)

日本を飛び出る

このnoteでは養子を考えるに至ったことが本題ですが、その根底には「多様性を認める社会であってほしい」という願いがあります。そこに至る背景として、簡単に私のこれまでの家族構成や生育歴にも触れておきたいと思います。

家族構成は、両親ふたりと2歳違いの妹との4人家族。少し変わったことといえば、両親が海外赴任をしていた時に、米国で生まれたことでしょうか。私が4歳の時に、家族とともに日本に戻り(というか来日し)、その後は東京・埼玉・千葉の公立の小中高校で教育を受けました。

色黒な父親の影響か、幼少期にハワイで太陽をたくさん浴びたせいか、日本人にしてはとても色黒なうえに、天然パーマがあり幼少期にハワイで開けたピアスも相まって、少し風変わりな外見をしていたのかもしれません。大人になってからも海外では、東南アジアのルーツだと思われることが比較的多いです。

10歳頃@ハワイ(夏休み)

元来、友達作りが得意ではなく、ともすると私は「ここではないどこか」に思いを馳せる小学生でした。記憶にはないけれど、生まれた地である米国だったら、もっとしっくりくるのかもしれない、そんなことを考えていました。

自分の性格のせいなのか、外見のせいなのかはわからないけれど、女の子のグループにうまく溶け込めず、あまり居心地がよくなかったことを覚えています。10代の時に覚えた友人関係の違和感はずっと私の奥底にあり、海外への思いを募らせていきました。

海外といえば米国だった私の憧れは、高校生の時におこった9.11以降の米国の行動で疑問を持つようになり、ヨーロッパ的価値観に興味を持つようになりました。これが私が上智大学外国語学部フランス語学科に進学した動機であり、今日、パリに住むようになった全ての始まりです。

大学生時代に初めてパリを訪れ、その多様な人種にとても驚きました。パリに来たことがある人はわかるかもしれませんが、パリ市内にもここはアフリカかと見間違うようなエリアがあります。そしてその多様性は、私の目には非常に魅力的にうつりました。

日本は単一民族と言われますが、実際には多くの中国人や韓国人と長く暮らしています。ただ肌の色は同じだし、彼らが日本名を名乗ってきた(名乗らせてきた)ことから、そこにある多様性が見えづらいだけだと思います。私は大人になって初めて、自分がしっくりこなかったものの正体が、日本社会が求める”同質性”だと知ることになったのです。

大学を卒業したのち、幸運にも奨学金を得て、パリで大学院に行く機会に恵まれました。パリでそのまま就職できたらいいな、と淡い期待を抱いていましたが、時代はリーマンショック直後で、外国人が就職するのは至難の技。

2009年、東京に戻り、運よく転がり込んだ米系投資銀行で働きはじめました。がむしゃらに3年働き、ふと立ち止まると彼氏もいない28歳。30歳になるまで海外に出ないともうこのままずっと東京かもしれない、という謎の焦りもあり、ニューヨークに住む友人に誘われるまま職探しをします。これまた運よく日系銀行に現地採用され、あてもなく移住することにします。この時には、とりあえず数年住んでみよう、ぐらいにしか考えていませんでしたが、当地で夫となるフランス人男性と出会ったことで、また違った扉が開いていきます。

2013年@ニューヨーク


9か月で結婚

2012年にニューヨークに移住してから数ヶ月、初めて生活するアメリカをとっても楽しんでいました。不思議なものでニューヨークにいる自分はまるで別人格です。ニューヨークはよそ者の集まりですから、いつもみんな新しい出会い・新しい友達を求めています。私がフランス語を話せるということで、フランス人の友達を紹介され、そこから芋づる式に夫となるフランス人男性と出会いました。

私の日本人男性の友人には、パートナーの女性と対等に付き合い、キャリアを尊重する人が何人もいますが、私自身は東京にいた時にそういう相手に恵まれませんでした。

2013年の夏に、穏やかな性格の彼と付き合い始め、自分を偽らずに同じ目線で会話でき、とても居心地の良いものでした。付き合う相手が外国人で楽だなと思うひとつの理由は、名前の持つ響きや、出生地、学歴、勤務先企業に対しての知識があまりないので、お互いの社会の物差しで先入観を作らないですむことかなと思います。

私と付き合い始めた頃の彼は当時転職活動中で、すでにパリにある企業と面接中。夏休みで帰省した時に受けた面接先から程なくしてオファーが出ました。その時に一緒に来ないかという提案がありました。

当時付き合って2ヶ月。とてもまともに検討できる話ではないな、と思いつつも、この人と長く一緒にいられるかもという可能性も捨てるには惜しく、彼が本帰国するまでの半年間ゆっくり考えさせてもらうことにしました。

ニューヨークで一緒にいられる時間が決まっていましたから、短時間でいろいろなことを共有するようになりました。どんな家族で育ち、家族とどういう関係なのか。相手に何を求めるのか、どういう価値観を共有していて、どういうところが違うのか。今後、どういう場所で暮らしたいと思っていて、どういう家族を思い描いているのか。

当初から家族とは仲がいいことは感じとっていましたが、いろいろな角度から話をきくに連れ、寛容な家族が垣間見えて安心した覚えがあります。特にお兄さんも外国人と結婚していたのには、なんとなくほっとした覚えがあります。

特に私の中で大事だったのは、パートナーのキャリアを同等に考えていること。向こう数年パリに住むのはいいけれど、その後はふたりとも仕事があるような世界各都市を住む場所の候補に入れて欲しいこと。結果的には、今後もずっとパリになりそうですが、当初は「パリへは旦那さんのキャリアオポチュニティーで行くんだから、次の場所は私に決めさせてよね」と思っていました。

女性が結婚や出産後も男性と同等に仕事するのは、フランスでは(少なくとも日本よりは)普通のことです。ただ彼のうちは父親が長く失業していて主夫だった時期もあったので、ふたりが平等に仕事するという意識が特に高かったのかもしれません。私も今でこそ料理をするようになったものの、ニューヨークにいた当時は、朝ご飯にドーナツ、昼ごはんにピザ、夜ご飯はパスタ、と無茶苦茶な食生活で、家事全般好きではなかったので、そのへんも含めて期待しないで欲しいと念押ししていました。

こどもはふたりぐらい欲しいこと。ただこどもがどうしても欲しいから結婚するわけではなく、もしいなくてもまずカップルとしての生活を大事にしたいこと。皮肉なことですが、今となっては、本当に確認しておいてよかったなと思っています。この目線があっているからこそ、こどもを持つプロジェクトを進めつつ、でもプランBもあるよね、という気持ちでいられるからです。絶対に子供が欲しい、でなきゃ離婚だ、という人だったら私の人生は全く違うものになっていたと思います。

自分個人としても、どこに誰と住むことが重要なのか考える機会になったと思います。東京、ニューヨーク、パリを横並びにして、キャリア面での可能性、友人などのコミュニティー、文化面などのライフスタイルなど自分はどこで暮らすことがハッピーなんだろうと考えた記憶があります。

最後は「ダメだったらニューヨークに帰ってくればいいや〜」という気持ちで勢いをつけて2014年にパリに移住です。



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