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音楽が分からない私と誰かへ

私は音楽ができないし、分からない。音楽を聴いても手拍子を正しいリズムで打つこともできない。なんとなく周りに合わせているはずなのに、皆とは全然違うところで手を打っているし、そういうことが続いてどんどん楽しくなくなっていった。カラオケだって、自分から出る音は明らかにずれている。中学の合唱コンクールで指揮者をやらされたのはしっかりしているから、みたいな理由だったし、当時の私からしてもそれは絶対間違っているだろうと思いながらも結果は金賞だった。音楽、何を評価したいのか全然分からないな。中学校には吹奏楽部がなかったから、経験者だらけの高校の吹部に入れるはずもなく、楽器ができるようにはならなかった。音楽の時間のリコーダーは耳を突くような音を出すから嫌いだった。

音楽は万国共通とか、言葉の要らないコミュニケーションとか、そんなようなことを言われるたびに、悲しい、と思った。その世界の外側にいる人なんて存在しないような態度をとられて、私は音楽という世界からは必要とされていない。彼らは生まれたときから音楽の国にいたから分からないのだ。寛容なようでいて、私はその場所にいるときちっとも楽しくなかった。音楽の素養があることは文化的な資本にも強く根差していて、でもそういうものには触れずに、体ひとつで楽しめるよ、とか言う。

だが、なぜか、私の友人たちは揃いもそろって音楽と暮らしていた。エレクトーンが弾ける、歌うのが好き、吹奏楽部出身、DJをやっている、ボカロに詳しい、ピアノが上手、作曲ができる、それを当たり前のようにやってのける。気取らず、鍵盤の前に立って、踊るように音を鳴らす姿は、魔術師のようだった。彼らは私に、おすすめの音楽をいくつも渡した。私は怖いなあと思った。友達のことが好きなのに、この曲を好きになれなかったら、どうなるんだろう。私は友達失格だろうか。いつも再生ボタンを押すとき、少しだけ躊躇う。聴かなかったこともある。自信のない私には、渡される音楽は常に重すぎると思った。

時は流れ、大学3年生のこの春、ゲーム「星のカービィ」にハマった。今までゲーム機を持ったことがなかった私は、このとき初めてゲームの楽しさを知ったし、ゲーム音楽というジャンルがあることを知った。ゲーム音楽は別にめずらしいものではない。アニメだって、映画だって、主題歌や挿入歌はある。しかし、それがどんな意味を持つのか、私はカービィを通じて初めて知ることとなる。

カービィは、私の生きている世界とは違うところに生きている。カービィが生きている世界は、ゲームの中で作られている、独立した世界だ。その世界観は、ゲームをやる人間に正しく共有されなくてはならない。緻密な設定や、構造的に矛盾のない地図、ゲームに慣れていたり、作品に強い愛がある人間ならばそこまで気にするかもしれないが、一番大切なのはそこではない。カービィなどはまさに、私のような初心者に向けて作られているから、複雑なシステムは理解できない人にも世界観を共有する手段が必要だ。何より、世界は、輪郭を持たなければ成立しない。

そう、音楽は、線と線の間にある空気を充填することができる。そして、輪郭そのものを描くことができる。これは私にとって大きな発見だった。それは、私が音楽を通じて人について知る作業と同じように、音楽を通じて、ゲームの中にある世界の形に触れていたのだ、とふたつをいっぺんに理解した瞬間でもあった。そう、私は、友人たちから勧められた音楽を通じて、友人というそのものについて知る行為をしていたのだ。音楽は、一人ひとりが秘めている宇宙みたいなもので、それこそ本当に言葉にはできないような、爆発するような、形がなくて、それでもその人自身の輪郭を描くような、そういうものが、音楽なのだ。

かっこいい音楽を作ることとか、技巧的にすごいものとかが大切なのではなくて、自分や、この世のどこかの場所や、架空の空間を満たしているもの、それを与えるだけで、その本質を掴ませてくれるのが音楽だ、という気づきは、私にとっては新しい大陸をひとつ見つけた、くらいのインパクトがあった。何を当たり前のことを言っているんだ、と思う人は良いのだ。こんなものを読まなくても音と遊べるのだから。自分という宇宙からの音が聴こえるのだから。そうではなくて、私は私の発見の話をしている。音楽に対して、分からないなあと悲しく思っていたころから、一歩ずつ学習してきた私を救うために。

ここまで書いて私がひどく悲しく思うのは、私という宇宙の音を、私は聴くことができないし、表現もできないということだ。私の中に音がないのだろうか。分からない。分からないけれど、音楽を奏でるというのは、自分で自分というものを構築し直していくことにも似ているのではないかな、と思う。自分の宇宙を音楽で表現できるのならば、音楽で自分という宇宙の空気を少し変えることだってできるのかもしれない。だって、音楽ができる人はなんだか音と溶け合っているようだから。分からない。音と遊べる人を心から羨ましく思う。私は言葉と遊んで生きてきて、だがしかし、言葉というのは意地悪な存在で、決して私そのものは準備してくれない。本当のことの周りをぐるぐると回り続けて、おしまい。だから、音楽が少しでも私から出てきたら、もう少し本質に近づけるのではないかと思う。宇宙の輪郭をなぞれるのではないかと思う。実際はそんなことないかもしれない。分からない。分からないから、音楽の人と話したいなと思うけれど、音楽の人からすれば、私と音楽をやりたいと思うだろう。私の奏でる音が歪かもしれないと思うと憂鬱だな。私は、言葉という盾を使って、本当は逃げているだけなのかもしれません。ただ、世界とか、宇宙とかの全体を描けなくても、そこからこぼれた破片をぽとぽとと拾えれば、それで良いかなと思います。

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