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【エッセイ】 言葉の国

※画像は以下より引用しました。
[KarenT]思慮するゾンビ(feat. 初音ミク)/FICUSEL
私が哲学的な思考に惹かれた一助にもなった曲です。静かで不穏で、それでいて存在の温かみのある曲です。ぜひ聴いてください。

[KarenT]思慮するゾンビ(feat. 初音ミク)/FICUSEL
https://youtu.be/zpPYmn0iHBM?si=SHC_JluVAavhWpRQ




1. 無機質な論理としての言葉のイメージ

 皆さんは言葉というものについてどのようなイメージを持ちますか?「言霊の幸わう国」というように豊かなイメージを思い浮かべる人もいれば、ただ単に、何か物事を考える際の媒介としての道具に過ぎない、という人もいると思います。私としては、ずるいかもしれませんが、その中間にあると思います。なぜなら言葉の持つ豊かなイメージというものも実際のところ、例えばピンクや水色といった色や四つの花弁、その上に光る露、雨の匂い、などからなるイメージされるものを全容的に捕らえる(統治する)ための「紫陽花」という言葉として機能するからです。だけれどもその一方で、私たちが何かしらの抽象的概念について考えるときにわかりやすいのは視覚的なものであり、字面のみで考えるときでさえ視覚的イメージを浮かばせるものとして言葉はあるからです。
 私は最初にソシュールの言語学について聞いたとき、あまり惹かれませんでした。何かイデアの影が戯れているのを側から見ているような、比喩的でシステマティックな息遣いだったからであり、また、「言葉は差である」といった具合のニュアンスに聞こえ、それが何か階層的な他者比較の文脈に感じられたからでした。
 しかしあるとき、私はふと言葉について諒解したのです。それは今でも私がふと考えたことを記すためのメモに残っていて、それをメモしたこと自体も私の記憶に残っています。それは、「言葉とは差ではなく意識であり、結界であり、国である」というものです。

2. 瞑想と言葉

 私はあるとき身体と霊性についての授業を受けていました。その授業では、毎回の授業の前に座禅をする時間がありました。そしてその先生が仰っていたことが先述の「言葉」についての諒解につながったのです。曰く、口で説明するものはあくまで想念的な理論であって、大事なのは実践である、なぜなら言葉で考えているときに我々は「もの」や「考え」や「私」といった区別を持っている状態(小我)であり、実践を通して、考えないことすら考えないような状態(大我)を目指すからである、ということでした。こうした座禅について図解でわかりやすいのが十牛図というものですが、そこでは座禅の真理とそれを体得する過程をそれぞれ牛と山中に例え、それ以外の平常時を世俗として描いています。つまり言葉で考えている以上、私たちは世俗にいるわけです。その意味で私は言葉が意識であり結界であるといったのです。
 しかしながらこれは悪い意味で言ったのではありません。私たちが世俗で生きる以上、言葉は不可欠ですし、何よりも大事なのは「言葉は国である」ということです。
 最近になって、ソシュール言語学について、というかソシュールの考え方について私は勘違いしていたことがわかりました。彼は、人間が言葉によって切れ目を入れる際、どの差異を区別するか、無視するかといった切れ目は文化・民族によって恣意的選択によって異なる、ということを言っていたのです。私は、彼のいう「差異」という言葉の「まなざし」性に囚われ過ぎていたのです。大事なことは「まなざし」ではなく「選択」ということだったのです。

3. エイリアンは子どもの国への入国を希望する。

 私は生きていますか?知りませんよね(笑)。もちろん生きていると思います。生きていると思いたいです。皆さんは生きていますか?生きているってなんでしょうね?質問を変えてみましょう。

「〇〇は生きていますか?」(←あなたの本名を入れてください)

 あなたは生きていますか?と聞かれると多分ほとんどの人はその真意を探りながらも「まあぼちぼち生きてるよ」なんてことを返してくれると思います。でもこんなふうに、「〇〇は生きていますか?」なんて聞かれると答えに困ってしまう感じがしませんか?

 よく小さい子は自分のことについて話すとき、「〇〇はねぇ、」なんて話し方をすると思います。そういう小さい子っていうのは自分の国を持っていて、存在に溢れている気がします。そういう子を見ると、なんだか自分が遠い星から地球を見つけた知的生命体のエイリアンになった気分になりませんか?誰もが持っている〇〇(本名)という存在と国を見失ったエイリアンです。映画で描かれるような知的生命体は、その肌は荒れていて、残虐で、言葉が理解されても合理的すぎて内容が理解されない。それでも彼らはこういうんです、「ワレワレハ、ウチュウジンダ」って。「ワレワレ」は生きていて、「ウチュウ「ジン」」という存在であることを伝えるんです。

4. 名前を自分の国にできたなら

 よく「名は体を表す」なんて言いますよね。私はこの言葉を大変にいい加減な言葉に感じていました。「だったら蒲公英だの向日葵だのつけてくれりゃあいいじゃないか」ということです。でも本当は、この言葉はこういうことを伝えたかったんじゃないか、と思うんです。つまり、「名は体性を表す」、ということです。手で感じて知ったもの、相互的な刺激やぬくもり、動いている私、そういった体性の諸々を表しているのではないでしょうか。
私はボカロが好きなので「初音ミク」という存在について考えてみましょう。「初音ミク」という言葉は体の何を表しているのでしょうか。あるいは、何があれば「初音ミク」なのでしょうか。長いツインテールでしょうか、歌声でしょうか、衣装でしょうか、あるいはトレードマークのねぎでしょうか。どんな要素も彼女にはならないですし、「初音ミク」も、どんな要素であってもそれのみと結びつきません。だけれども、全体として総体(≠総和)として、私たちは彼女を受け入れるのです。初音ミクは初音ミク、ただそれだけです。
(仮に図像学的にねぎ単体であったとしても、ネギのイメージが初音ミクのイメージを繋がっている以上、初音ミクという言葉との結びつきの仕方は変わりません。)
名前と実体が一体化するような感覚になれたら、きっと自分の居場所を自分の中に作ることができる、そんな気がします。

5. 自己救済の物語

 でも実際のところ、自分の実体ってなんだろう?という疑念が頭を擡げることがままあると思います。少なくとも私はあるのですが……。私は姓名ともに多少珍しい名前ですので名前と実体が一致する感覚が多少ありますが、それでも実体について不安になる時があります。
 これもまた最近諒解したことなのですが、私は時々何かについて考える際、とても説教くさいような達観視したような口調になる時があります。この鼻持ちならないような性格は多分小学生の頃からのものだと思います。私はプライドが高いところがあり、人生で挫折は何度もあったものの、それでも万能感がどこかで拭い去られることもなかったのでしょう。当然のことですが、皆大なり小なり色々なことを思考しているはずです。しかし他人の思考というのは自分の中には普通入ってきません。会話してもそれは社会生活言語であって、彼/彼女の学習思考言語はなかなか入ってこないものです。あるいは、通常のコミュニケーションが可能な人であれば、それは社会生活言語に変換されます。それを知らずに自らの思考に蓋されていたために万能感が抜けきらなかったのかもしれませんし、単に三つ子の魂だったのかもしれません。
 あるとき、私はある言葉を知りました。それはメサイア・コンプレックスという言葉であり、まさしく私のことのように思え、頭を強く殴られた気分でした。
 私はできるだけ人に優しくありたいと考えていたのですが、それは「自分が優しい人間であると信じたい」という部分が根幹にありました。あるいは、就職活動の業界研究では、人の人生の根幹になりうる本質に触れられるような仕事を探していましたが、それもまさしくメサイア・コンプレックスに当たるのだと思います。また、私は時々考えたこと諒解したことをメモ書きにして残すのですが、そうした行為自体も、「何者か分かり得ない「私」なる存在を言葉で形作った」、という自己救済なのでしょう。
 この言葉を知って、私は私自身について看破されたようでショックを受けつつ、また一方で、何か私を見つけてくれたようで安心した気もしたのです。
 精神的な病気についても、これと似たような部分があるのではないかと、私は思います。私は一時期、毎年秋になるととても憂鬱になって死にたくなってしまう時期があったのですが、季節型うつという言葉を知って少しだけ安心したところがあります。それからは、今の所落ち着いています。あのアニメの言葉を借りるなら、少しだけ「絶望と仲良く」なれたのかもしれません。

終わりに. 全てがつながる縁起のうちに

 近年何かと話題になるLGBTに関しても同じことが言えるのではないかと私は思います。勘違いしないでいただきたいのですが、病気と言いたいわけではありません。ただ、自分という存在と周りを見渡した時に起こる、小さな違和感、エイリアンのような感覚、そうした心に国を与えたのがLGBTという枠組みなのだということです。あるいは、私たちがTwitterのプロフィール欄で「好きなもの:〇〇/〇〇/〇〇」と言った具合に、遺伝子の組み替えみたいな情報の書き方をするのも、私という存在に国を創る行為なのではないでしょうか。(Twitterの場合はペルソナ的色合いが強いので少し違うかもしれませんが……。)
 しかしまた、LGBTの活動を見てみれば、彼/彼女の主張というのは、「私たちは普通だ」あるいは「みんな一緒だ」ということであることがあの旗含めわかると思います。つまり、一度LGBTという枠組みを認識した上で、それを戻していこうとする動きがあるわけです。これってなんだか仏教的だと思いませんか?座禅の理論を小我的に捉え、実践として大我に溶かしていく、というあの流れです。それだけじゃありません。私という存在が、季節型うつという言葉を知って、それを日常に戻していく。メサイア・コンプレックスという言葉を知って、それを日常に戻していく。思考が浮かび、消えていく。パンをちぎって、食べていく。人が生まれて、死んでいく……。
 そうした行動にはきっと、その人が今までの人生で生きてきて、色々なものの中に入っていって、色々なものを触って、聴いて、色々な人と話して、混じり合って、別れて、その中で感じたもののあれこれ色々なことが積み重なって意識として、統覚として、現れているのだと私は思います。その全てをエイリアンな私は知ることができないでしょうが、だからこそ私は考えてしまうのです。言葉と呼ばれる国のことを。

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