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2つのかわいそう

2つのかわいそう

もともとひねくれている性格の私は、癌になってからさらにひねくれた。

若いのに癌になって、自分は本当にアンラッキーだしかわいそうだなって思っていたが、他人にはかわいそうと思われたくはなかった。

癌になってから気がついたのだが、「かわいそう」という言葉は大きく分けて2つのタイプがある。
ひとつは「かわいそうに(できることなら変わってあげたい)」という気持ち。これは心から慈しんでいる対象が、悲しんでいたり辛い思いをしていたりするときに抱きやすい感情だと思う。私も祖母に泣いて電話をしたときに「かわいや、なんでそんな辛い思いをせにゃならんのかね(かわいそうに、どうしてそんな辛い思いをしないといけないのか)」と言われたときは嫌ではなく、むしろその気持ちが痛いほど伝わってくるから嬉しかった。
もうひとつは、「かわいそうに。(自分はそうじゃなくてよかった)」というニュアンス。これはテレビで事故を見たときなどに多いだろうか。かわいそう、不憫だ、とは思うものの、他人に対して「変わってあげたい」と思えるほどできた人間はそういない。このタイプの「かわいそう」が、癌になってからかなり癪にさわるようになった。その人の幸せを確認するための不幸例にされているようで、嫌だった。「私は違うけれど、そんな不幸にあってかわいそうに」と、一線をひかれて高みの見物をされているように感じた。もっと直接的にいうならば、見下されている感じがしたのだ。この場合、言葉にだして「かわいそう」などという人は論外で、心の中で「自分は健康でよかった、生きていることは奇跡なんだ、そのことに気がつけてよかった」などと思われることさえ嫌だった。私の不幸を、幸せなあなたの踏み台にしないでほしい。

だから、本当に私のことを心配して、一緒に悲しんでくれるだろう人には癌のことを言えたけど、そうじゃない人には言いたくなかった。


祈ることは人を強くする

治療が終わって2ヶ月。友人と1年ぶりに会った。

出会いは職場。
少しやんちゃな見た目とズバズバ物申す性格のため初対面は怖かったが、なんとなく馬があい仲良くなった。
一緒に働いたのは3年。
しっかりとした芯があって、上司にも違うことは違うと言えるまっすぐなところが私は好きだった。

本当は癌になってすぐに、彼女に連絡をしたかった。
癌であることを伝えた時に、本当に私のことを心配して、一緒に悲しんでくれるだろう人。彼女はそんな数少ない友人のうちの一人だった。

けれど、なんと言って連絡をしたらよかったのだろう。
自分で受け入れもできていないのに、「癌になっちゃって」と泣かれたら困らせるだけだと、打ちかけたメッセージを消した。


治療が終わって1ヶ月したところで、近況を知らせるLINEが来た。
「元気?こっちは部署が異動になったよ。」
「元気じゃないの」正直に返信した。

会う約束をして、当日直接癌になったことを打ち明けた。
「手術したの?ステージは?髪の毛抜けたの?」たくさん聞きたいことはあっただろうに、ひとつも聞かず、こちらから話すのを待っていてくれて、その聞いてくれる姿勢がとても心地よかった。

彼女の両親もがん経験者のようで、癌封じ寺にお参りに行っていたと教えてくれた。
癌封じ寺の存在は知っていたのだけれど、車で1時間30分ほどかかるため重い腰があがらないのだった。
けれど、友人と話していると行ってみようかなという気持ちになった。ご両親も再発なく元気で過ごしているという事実が、私の背中を押した。

翌日が日曜日だったのでさっそく行くことにしたのだが、子ども二人を連れていくのは大変でしょ、となんと一緒に行ってくれることになった。
途中で友人を拾って、ドライブがてらお参りへ。

お守りを買って、絵馬を書いて、帰宅。

科学的根拠は一切ないのは十分承知だが、お参りしたという事実で心は晴れやかだった。
きっと、大丈夫。
再発しませんように。
きっと、大丈夫。

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