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姥捨山    第4章  全17章



「ただいま」

 疲れた声が真っ暗な玄関に響いた。守は手探りで照明のスイッチを探し、玄関の灯りを点けた。日課では守の声の直後、玲子の返事が帰ってくる。しかし、今日はどこからも返事がない。キッチンから聞こえるはずの調理の音もない。闇に落ちたように静かだ。目線を落とす。足元には健康サンダルが並び、片隅には乾いた傘が傘立てに立ち、いつもと変わらぬ光景だった。首を左右に振ると、違う点を一つあった。下駄箱の上に生けられた赤い薔薇の花弁が一枚落ちていた。薔薇の花弁を手に取り、照明に翳して眺めた。バラの花弁は生気を失い、柔らかくなっていた。花弁の異様な感触を指先で感じ、直感的に玲子が姥捨山に消えたことを悟った。

 玄関の扉を閉めようと扉に手をかけると、ポストに投函された一枚の紙切れが目に入る。急いで紙を開き、記載された内容を目で追った。

 紙は玲子が記載した同意書のコピーだ。細かい文字が並び、最下部に蚯蚓のような字で玲子のサインが記されている。

「玲子・・・」

 唸るような声で呟やく。それと同時に、目から大粒の涙が溢れ出した。記憶にある限り、生涯で初めて流す涙だった。両親が他界した時も、友人の事故死に遭遇した時も涙を流す事はなかった。しかし、この時は涙腺が崩壊したかのように涙が流れ落ち、乾いた床を濡らした。

 流れる涙を拭い去ることなく玄関へ上がり、玲子が残した痕跡を探した。キッチン、リビング、寝室、書斎、一部屋一部屋の照明を点けては、痕跡がなく落胆し、照明を落とした。守の歩く後には、濡れ雑巾を運ぶように、涙が広がった。

 家中をふらついたが、玲子の痕跡はどこにもなく、最後に縁側へ向かった。縁側から見える庭は、月夜に照らされる赤い薔薇の花が奇妙な彩りを創っていた。

 足に柔らかい何かが触った。守は足元に目を向けた。溢れ出す涙を両手で擦り払いのけ、足に触ったものを手に取った。

「マフラー・・・」

 守の震える声が漏れた。編み上がった青いマフラーがほんのり温かい。太陽の熱を保温しているのだろうか、それとも玲子の指先の体温を吸収しているのだろうか。マフラーを持つ守の手が震え、操り糸が切れたようにその場に座り込んだ。溢れ出す涙は青いマフラーに流れ落ち、縁側の床に落ちることなく吸い込まれた。

 守の絶望は、夜の闇と同調するように深く潜ってゆく。これまで築いてきた我欲がバラバラと崩れ去るように。玲子が連れ去られた今、やり場のない感情が生起した。国や法律に対しての怒りではなく、玲子に行ってきた数々の振る舞いに対し、腹がよじれるほどの後悔の念が湧き上がった。



 守は地方の山村で育ち、社会人になり都会に出た。頑固一徹の性格は、父親譲りの先祖から引き継ぐ血筋だと自負しており、幼少期から父の亭主関白の姿を人生の参考書として見聞きし、観念に刷り込みながら歳を重ねてきた。その姿に、疑いを持つことは一切なかった。

 仕事では頑固な性格が見事に嵌り、毅然とした態度で世界中に飛び回り、契約を取り、常に上位の成績を上げていた。その結果、会社にて一目置かれる存在になり、出世も早く、多くの部下を持つ役職に就いた。天職だと思った

 とある海外出張中、ホテルのバーで玲子と守は出会った。運命的な出会いで、守は恋に落ち、即座に交際を切り出した。

「玲子さん、僕について来てくれますか?」

 営業と同様の硬い口調で、玲子に話しかけた。自信に満ちた守の口調に玲子は嫌悪し、申し込みを断った。しかし、守は諦めずに何度も玲子に交際を申し込んだ。その結果、玲子は根負けし渋々交際を始めた。それから交際を続ける中、玲子は純情で真っ直ぐな守の瞳に惹かれていった。

「玲子さん。貴方を絶対に幸せにするよ」

 婚約時に、守は言葉を残した。

 時が経ち、交際時に約束した玲子に対する尊重の思いは、仕事の情熱へと移り変わっていた。亭主とは仕事して家族を養う人間だと色眼鏡で見ていため、偏った色眼鏡を外すタイミングを失った。意図的に外さなかったかも知れない。授かった子供達の前では、威厳を保つために一切笑顔を作らない。変わり者だと近所の人から揶揄されても構わなかった。

 自分の培った矜持を鼓舞しながら歳を重ね、いつの間にか体は老化し、膝や腰に痛みを感じるようになっていた。しかし、玲子に弱音を吐くことはなかった。それが亭主の役目だと。



 玲子に対し冷酷な姿を貫いたが、消え去った今では取り返すことが出来ない。これまで行った無益な威厳行為の罪の重さが、守の全身に雪崩のように畳み掛け、目から大粒の涙を流させた。
 

 下弦の月光が、縁側で意気消沈と佇む守をひっそりと照らし続けていた。


第5章へ続く  



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