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何かと注文が多い時代だからこそ、読みたい一冊。

こんにちは。

先日から岩手の記事を投稿していますが、五感に焼きついた、もしくは焼きつかれた岩手は、まだまだ醒めないものです。忘れものをしたわけではありませんが、何かを置いてきたような感覚。見つけにいかなくては。

宮沢賢治先生の『注文の多い料理店』は有名な作品です。僕も小学校のころに読んだ記憶があります。名作なのですが、出版に至るまでのドラマも相当なものがあったようです。

光原社を訪れた際、一枚の紙をいただき、『注文の多い料理店』が出版に至るまでのドラマを知ることが出来ました。



宮沢賢治先生の後輩に、及川四郎氏と近森善一氏がおられました。
及川氏と近森氏は役人や月給取りだけにはなるまいと決められ、「東北農業薬剤研究所」という大層な看板を掲げて、農薬の製造や農業関連の教科書の出版を行なっておられました。
教科書の販売目的で、花巻農学校教師だった宮沢賢治先生を訪れた近森氏は、先生の膨大な童話の原稿と出版の意向を、無条件に近い出版の承諾の意を含んで盛岡に原稿を持ち帰られました。
乱暴な話でしたが、及川氏は出版の件を即決しました。二人は先生の原稿をろくに読んでいませんでした。当時の三人は、28歳の若さです。野心が滲み出ていたのでしょう。
そして、盛岡に出向いた宮沢賢治先生を囲み、『注文の多い料理店』の書名と『光原社』の社名が決まりました。
しかし、社名の立案などの楽しい時間は一変し、出版までは茨の道です。近森氏は生家の事情に高知県に戻られ、出版の責任は及川氏一人の肩にかかってきました。
印刷を東京で行ない、本の用紙へのこだわりが高いこともあり、見積もりは大幅に上がってしまい、恩師の稲村要八氏からお金を借りられました。そして、及川氏の苦心を見かねた宮沢賢治先生が200冊分を買取り、光原社は虎口を脱しました。
『注文の多い料理店』は高価であり、当時の宮沢賢治先生は無名、更に出版社に確たる販路がないため、『注文の少ない料理店』という結末を迎えたことは当然過ぎることでした。童話集は廊下に山積みにされていました。
光原社は無謀だと揶揄されるかもしれませんが、少し違います。及川氏は生涯お金儲けには縁のない人柄でしたが、数字には人一倍明晰できっちりした商人道を好んだ人です。ですから、出版にあたりましては、宮沢賢治先生に対する無私の敬意、一緒に母校で過ごされた青春の日々と母校愛が、『注文の多い料理店』を形作られたと言えるでしょう。



要約しました。原文は、盛岡の光原社にありますので、ぜひぜひ訪ねて、手にとってみてください。光原社には他にもたくさんの資料がありますから。素敵な場所です。

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それから、消えかける思い出を探すように『注文の多い料理店』を買ってから読みました。
ストーリーがしっかりしてまして、すごく楽しめます。部屋を進んでゆく時の猟師の心情が伝わり、結末がわかっていても、ドキドキしてしまいます。何故だろうと考えていましたら、とある発見がありました。それは、

ありました。
しました。

など、終始『丁寧語』で書かれているのです。
はー、だから、あのような独特の童話の世界に入っていけるんだなあ、と一人で感銘を受けてしまいました。
『注文の多い料理店』には、懐古、時代を超えた人間の教訓や哲学、短編とは思えないドラマ、もっと多くの何かが銀河に浮かぶ星のようにあちこちに散りばめられています。おすすめ童話です。


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他にも、多くの短編が集められていますので、手にとってみてはいかがでしょうか?
手にとらないからといって、壺の中の塩をふり、あなた食べてしまうことはありませんから。


花子出版   倉岡

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