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文学碑ガール  第2章(全3章) 短編小説



第2章

 清澄な黎明が中伊豆に降り立った。相変わらず川の水音は激しく鳴り響き、枯渇を知らないようだ。旅館へ朝日が降り注ぎ、障子にて柔和にされた光が、川崎と秋山の頬を優しく撫でた。会話に会話を重ねた二人は布団を蹴散らし、浴衣が乱れ、新緑と同じように若さを解放していた。

「おはよう」

 同時に目覚めた二人は、瞼を擦りながら背中を起こし、枯れた声で挨拶を交わした。

「二日酔いや。川崎は大丈夫?」

「ああ、僕は元気だ」

「流石。根っからの酒豪やな」

「子供の頃から常に酒があったからなあ。酒が強いからって、何の得にもならないけれどね。そんなことよりも、天性の文才が欲しい」

「文才は感性を磨くもんや。川崎は文豪の小説を読み込んでるさかい、土台がしっかりしてる。あとは磨くだけや。さあ、朝ごはんを食べて、文学碑へ行こう。俺らの未来を切り開く鍵が眠っているかも知れへん」

 二人は布団を畳み、広縁の椅子に腰掛け、明けゆく中伊豆の情景に心を馳せた。川から昇る靄が広闊な新緑の谷を包み込み、遥か遠い昔から連綿と続く四季の一説をそこに描き出している。恰も二人への恩寵のように。

 伊豆産の素材がふんだんに使われた美味な朝食を食べ、満腹となった二人は外へ出た。柔らかい日差しに照らされ、旅の活力が漲る。二人は川沿いの道を鷹揚に歩いた。

「橋の向こうに、伊豆の踊子文学碑があるみたいだね」

 川崎は川の向かいを指差した。

「ほんま、楽しみやなあ」

 秋山の頬は緩み、感情が滲み出した。釣られて、川崎もニヤリと笑った。

 橋に差し掛かり、錆びついた欄干から身体を乗り出し、河津川を覗き込んだ。清く力強い水の流れは、点在する大小様々な岩にぶつかり、真珠のような泡沫へと変わり下流へと流れてゆく。決して、滞ることはない。

「美しい。これこそ日本の清流だ」

 川崎は心を奪われ、流れる水へ感銘する心を預けた。

「ほんま、ほんま。川のせせらぎが、心を洗い流してくれる。川端康成先生も、俺らみたいに、川を覗き込んで心を震わせたんやろなあ。感慨深いなあ。こんなに素晴らし景色見ると、俳句を詠みたくなる気持ちが分かるわ」

「一句詠んで?」

「比喩や、比喩。それくらい、この川が素晴らしいってことや。まあ、サクッと一句詠めたら良いんやけど、俺には似合わんわ。さあ、文学碑を見に行こう」

 二人は橋を渡り、小道を進んだ。

 大きな岩が屹立し、威厳ある姿で若い二人を見下ろした。岩の中枢には、洗練された流暢な日本語か浮かんでいた。

『伊豆の踊子   川端康成
 湯河原までは・・・』

 川端康成が残した、伊豆の踊子の一節が刻まれていた。

 二人は無言になり、その一節一節の情景を浮かべ、魂の上で転がすように咀嚼した。言葉という社会性の一面を超え、言葉という儚い現具を超え、二人を待っていたと言わんばかりに優しく包み込む川端康成の一節は、無垢な二人の感情に溶け込んでいった。

 幾分の時が経った。時間という概念では測れない時が河津川の水音によって流れた。

「川端康成先生の一節を、この地で読めるなんて感動的だね。何だか涙が出て来そうだよ」

 瞳を潤わせる川崎は、恥ずかしそうに掌で顔を擦った。

「泣いても構わんのや。川崎の川端康成先生への憧憬がこの地で開花したんやろ。俺も泣きたい気持ちでいっぱいや。恥ずかしいさかい、号泣はせえへんけどな。ほんま、真の文学分かる奴が友達で良かったわ」

 秋山の頬を伝う涙は流れ、地面に落ちて微細に弾けた。

 その時、二人の背後で足音が鳴った。感傷的になる二人は、びくりと背筋を強張らせ、俊敏に振り返った。そこには二人の年齢と変わらない程の女が一人で立っていた。艶を放つ真っ黒の髪に日本人形のような整った顔立ちの女は、微笑みながら二人へお辞儀をした。

 川崎と秋山は会釈し、左右に分かれて文学碑の特等席を譲った。

「すみません」

 女は一歩前に足を進め、文学碑を眺めた。女の澄み切った瞳に、文学碑に刻まれた言葉が映り込む。女を囲むように立つ川崎と秋山は、女の横顔を見入った。

「お邪魔したました」

 女がお辞儀し、立ち去ろうと文学碑に背を向けた。

「お一人ですか?」

 川崎は女へ声を掛けた。秋山は川崎が声を掛けたことへ驚きを隠せず、目を丸くする。頑固一徹で口下手な川崎が、女へ声を掛けたのだ。

「一人です。お二人ですか?」

 女は小さな唇を少し開けた。

「ええ、二人で来ました。僕は川崎で、彼は秋山です。大学で文学を専攻しています。あなたも川端康成先生の小説を読まれるんですか?」

「初めまして、私は三木と申します。私も川崎さんらと同じ文学を専攻していまして、川端康成先生の文学を愛読しています」

「今時珍しいなあ、川端康成先生の文学を愛読するなんて。まあ、俺らもやけどな。三木さん、『変わってる』って言われへん?」

 秋山が尋ねる。

「あんまり『変わってる』とは言われないと思います。自分で気がつかないだけかも知れません」 

 三木は指先で口元を覆い、苦笑いした。川崎と秋山は苦笑いする三木を見て、釣られるように笑った。

「三木さんは、きっと文学碑ガールですね」

「文学碑ガール?」

「そう、文学碑ガール。今風でしょう。巷では『何々ガール』といって、逐一話題となって世間を騒がせます。三木さんはその文学碑ガールの先駆けというわけです」

「面白いやん。三木さんが文学碑ガールの先駆けになれば、文学の再建ができるってわけやな。流行れば、商業的にも潤うはずやな。俺らが泊まった旅館にも、仰山お客さんが来ることになるんや」

「流行るんでしょうか? それに私が先駆けなんて、少し自信がありません」

 三木は困った表情を浮かべた。

「何が流行るか分からない時代だから、意外とウケは良いと思いますよ。まあ、永続的に続くかとなると、懐疑的になりますが・・・。ともあれ、気張ってSNSへ投稿しなければ、始まりません。先駆けですので、善は急げ」

「私、SNSをやっていないのです。すみません」

「おいおい、それじゃあ何にも始まらないやん。俺らも、SNSをやってないからなあ。机上の空論とは、正しくこのことや。川端康成先生が、草葉の影から俺らを見て、呆れてはるわ」

 三人は目を合わせ哄笑した。

「お二人は、伊豆の踊子文学碑以外にどこか回られましたか?」

「いえいえ。僕らは昨晩着きましたので、まだ回れていません。これから河津七滝へ行こうと思います。三木さんは河津七滝へ行きましたか?」

「まだ、行っていません」

「ほな、三木さんも一緒に行こう。三人の方楽しいで」

「お二人の邪魔にならないでしょうか?」

「そんなんあらへん。女の子がおる方花があるやん。踊子やないけれど、文学碑ガールなんやから」

「時間があるから、少し遠いけれど歩いて行こう。川端康成先生の足跡を踏襲しよう」

 三木を間に挟みつつ、三人は文学碑へ背を向け、河津川脇の小道を歩いた。昇っていた白銀の靄は消え、朝陽を受ける新緑が瑞々しい輝きを放っていた。緑が濃い。都会の街路樹のような人工的に付けられた色ではなく、自然が生み出す本物の色が散らばっている。そこには燻んだ色はなく、拓けた未来を持つ大学生の心を投影しているようだった。

 三人のスニーカーが舗装された小道へ足跡を残してゆく。

「三木さんは卒業後の進路をどうする予定ですか?」

 川崎が三木に尋ねる。

「・・・恐らく実家の街で就職すると思います。事務職でもしているのではないでしょうか」

 三木は寂しそうに答えた。

「そうそう。川崎みたいに、根性と文才があればええけど、一般人は文学から遠い世界で就職してまうんや。ほんで、家族を持ったりすると文学の影を失うてゆくんや。残念やけどなあ」

 秋山は三木の寂しさに同調する。

「秋山が言うほど、文才はないよ。有名な文学賞を受賞していないし、現時点で書いている小説は趣味みたいなもの。将来的には小説家になりたいけれど、雲を掴むような話さ」

「どんなお話を書いているのですか?」

 三木が興味深そうに川崎の顔を覗き込む。川崎は三木の瞳へ羞恥し、頬を赤く染めた。

「昨年書いた短編小説を読んだれや。俺も一押しの小説やったで。携帯電話に原稿が入っているやろ」

 秋山も川崎の顔を覗き込み、催促した。

「是非、読んで欲しいです」

「いや、自分の小説を朗読するなんて、ちょっと恥ずかしい。秋山が代わりに読んでくれないかな?」

 羞恥する川崎は、おどおどしつつ鞄から携帯電話を取り出した。

「いや、作家である川崎自身が読んでこそ意味があるんやないか。海外の作家は、出版前に小説の一節を読み上げるって聞いたことあるで。自分で書いた文章を自分で読むことに意義があるんや。俺が読んだら、小説が台無しになるで」

「そうかなあ・・・」気が進まないものの、川崎は携帯電話に入っている短編小説のファイルを開いた。「なんか恥ずかしいなあ。僕の小説なんて秋山にしか読ませたことないからなあ」

「川崎さんが、デビューしたら世界中の読者が目にするわけです。その事前準備のつもりで聞かせて下さい」

 三木はぺこりと頭を下げた。

 決意の固まった川崎は、混じり気のない空気を大きく吸い込み、落ち着きのある声色で小説を読み始めた。秋山と三木は、風の騒めきへ川崎の声を乗せ、小説の情景を浮かべながら聞き入った。

 三人の歩幅と同様に心地好いリズムで短編小説が進み、哀愁を残しつつ終わりを迎えた。川崎は携帯電話を鞄へ戻し、息を吐いて脱力した。

 川崎が作る文学の余韻に浸る三人は、空を見上げて雲を眺めた。春風に乗った雲が、形を変えながら西から東へ向かっていた。

「素敵なお話ですね」

 無言な時間の蓋を開くように三木が言葉を発した。

「ありがとうございます。昨年書いた小説ですが、朗読していると懐かしさが蘇りました」

「文章を組み立てるのがすごく上手ですね。それに綺麗な言葉選びをされています。秋山さんが言う通り、私も川崎さんの文才には光るものを感じますよ。こんな私が言うのは、ちょっと烏滸がましいのですが」

「うん、うん。川崎の文章って、ほんまに綺麗なんや。今時おらんやろ、こんな綺麗な文章を書ける人は。巷に溢れているのは携帯小説みたいな稚拙な文章ばっかりや。飽き飽きするで」

「ありがとう」

 照れた川崎はにやけ面になった。

「もし良かったら、他の小説も読んでみたいです」

 三木が尋ねる。

「ええ、機会がありましたら・・・」

 川崎は回答を濁した。文章を書く行為は自分の核心に触れる行為に近く、それを女へ晒すことへの恐怖が募った。

 三人は七滝を観光する人々に混ざり、出会滝らを眺めながら足を進め、初景滝へ着いた。初景滝の前には、滝から放たれる微細な水しぶきを背に受け、踊子と青年の像が座っていた。着物姿の踊子の像は、右手の指先を立て、哀愁を纏った楚々たる表情を振りまく。踊子の後ろに律儀に座る青年の像は、踊子のうなじ辺りを眺め、踊子への思いを視線に授けていた。

「ほー、これが初景滝かあ。ほんま綺麗やなあ」秋山が歓声を上げた。「ほれ、写真を撮ってやるで。二人並びいや。伊豆の踊子像と同じポーズをとるんやで。記念や記念や」

 秋山が川崎と三木の背中を押し、踊子像の前に立たせた。

「座る場所がないから、ポーズは取れないね」

 川崎は困った顔をした。

「まあ、そら仕方あらへん。川崎が三木さんの首元を眺めるんや。三木さんは寂しそうな表情を作るんやで。それでええ写真が撮れるやろ」

「ちょっと恥ずかしいですね」

 羞恥する三木は川崎をチラリと見て、視線を外した。

「ほな、撮るで。はいポーズ・・・」

 秋山のカメラから甲高い機械音が鳴り響き、即席に川崎と三木のツーショット写真が残った。川崎と三木は目を合わせ、会釈し、視線を外した。

 大自然から育まれる不可視のエネルギーを受け、三人は談話しつつ整備された遊歩道を上流へ向かって歩いた。

 大小様々の滝を見入り、最上流の釜滝に辿り着いた。急勾配な階段もあったが、若い三人はひょいひょいと軽快に進み、あっという間の旅路だった。多少の汗も心地好い。三人は滝壺を眺めた。

「この釜滝で河津七滝は終わり。ちょっと寂しいね」

 川崎は釜滝の滝壺に思いを馳せ、寂しさを紛らわせた。刻々と流れる河津の水が、人間各々の持つ瑣末な感情を優しく受け止め、跡形もなく下流へと流してゆく。偉ぶる事なく、奥床しく。三木は滝壺をじっと見入った。

 すると、

「お腹空いたで。帰ってから茶屋でなんか食べよ」

 空腹の秋山がお腹を摩りながら言った。

「花より団子だな。いやいや、造化の妙よりも団子だな」

 川崎は秋山の肩を叩く。そして、三人は笑みを零した。
 
 遊歩道を下り、三人は茶屋に入った。趣のある店内で、各々わさび蕎麦を注文する。伊豆名産のわさびを練りこんである緑色の蕎麦だ。

「頂きます」

 三人は手を合わせ、そして音を立てながら蕎麦を啜った。

「ほんのりわさびの味が効いとって、美味いなあ」

 空腹の秋山は胃袋へ、

「伊豆は水が綺麗だから、何を食べても美味しいね」

「俺は思うんやけど、水の清らかさと文学は比例してるんちゃうかと。三島市にある『水辺の文学碑』もな、透き通った水が流れる小川沿いや。他にも、栃木の日光や熊本の水前寺とかに、名だたる文豪や詩人が訪れとるやろ。恐らく、水の清らかさで自己に内在する穢れを洗い流し、潜在的な文を引き出すんやろなあ。きっとそうや」

 秋山は自信たっぷりな口調だ。

「なるほど、一理あると思う。水の音に耳を傾けると雑念が消えるし、変幻自在な水の流れを眺めていると、ストーリーが浮かんでくるよ。刻々と湧き出す水のように」

 川崎は秋山に意見に心から同調した。三木は蕎麦を啜りながら、二人に話しに耳を貸した。

「川崎は『伊豆の踊子』を超える伊豆文学を書かなあかんな。せっかく旅費を使うて来てるんやし、文学碑ガールがおることやし」

「すぐには無理だよ。構想もなければ、書き出しも浮かばない。それに、三木さんにだって悪いよ」

 川崎は三木を見る。

「私は川崎さんが書く伊豆文学を読みたいです」

 三木は困ることなく、答えた。

「そやそや。まあ、伊豆は逃げへんさかい頑張ってなあ。書き上がったら、絶対に最初に読ませてくれな。約束やで」

「はいはい」

 川崎は曖昧な返事をし、濁した。燦然たる大自然に圧倒され、文学碑に圧倒され、小説を書けるのか不安が募った。これすらも、河津川が与えた、恩恵の端くれなのだろうか。

 三人はわさび蕎麦を食べ終え、緑茶を飲みつつ、茶屋を流れる齷齪しない時の余韻に浸る。

「そやそや、さっき撮った二人の写真を送るから、三木さんの連絡先を教えてくれへん?」

 秋山はポケットから携帯電話を取り出した。川崎は横目で秋山の仕草を見た。

「・・・えっと、申し上げにくいのですが、携帯電話を持っていません」

 三木は表情を暗くした。

「え?」

 川崎と秋山は目を丸くし、声を出した。効率化が図られデジタル製品が櫛比する現代で、携帯電話を持たない人がいるのだろうか。しかも、多感な女子大生だ。二人は懐疑的になる。

「すみません」

 三木は頭を下げる。

「え、ほんまに言ってんの? 携帯を持たないなんて、今時珍しいなあ」

「うんうん。珍しい女性だ」

 二人は驚きを隠せない。三木は申し訳なさそうな表情を作った。

「正しく時代錯誤の本物の文学碑ガールやな。こりゃ、更に人気が出そうやなあ。ほんまに」

「おいおい、三木さんは商品じゃないぞ」

 手を叩いて喜ぶ秋山を、川崎は止めた。決して悪気があるわけではないが、秋山の関西弁はズケズケと相手に切り込む癖があった。その際は、いつも川崎が止めに入る。今回のように。三木は川崎をちらりと見て、視線を空になった湯呑みへ戻した。

 三人は会計をし、茶屋を後にした。

「これからどないする? まだ昼過ぎたばっかりやけど」

「そうだなあ」

 川崎は三人で時間を共にしたいと思った。同じ文学を愛する人間に出会うのは、稀有だったからだ。

「私はちょっと疲れましたので、旅館へ帰ろうと思います」

「そっか、そっか。今日はえらい歩いたさかいね。付き合うてくれてありがとう。ほな、これでお別れや」

「はい。こちらこそ、すごく楽しめました。川崎さんも、秋山さんも、残りの伊豆旅行を楽しんで下さいね」

 三木は屈託のない笑顔を振りまく。川崎は握りこぶしを作って、奥歯を噛み締めていた。

「川崎が小説家として売れたら、本買うてな。じゃあ行こうか」

 秋山は歩き出した。三木は手を振る。

「三木さん。どちらの旅館に泊まっているのですか?」

 川崎は噛み締めた奥歯を解き放ち、思い切り尋ねた。秋山は待っていたと言わんばかりの視線を、川崎へ送った。

「えっと・・・」三木は戸惑いながらも、はっきりと答えた。「福沢旅館です」

「福沢旅館ですね。良かったら、夜のドライブでもと思いまして。旅館へ電話を掛け、お誘いしてもよろしいですか?」

「はい」

 三木は小さく頷いた。

「良かった。それでは」

 川崎は約束を交わし、三木と目を合わすことなく背中を向け歩き出した。秋山は三木へ手を振った。

 山から吹き降りる風が、三木の黒髪を優しく撫でていった。


第3章へ続く。



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花子出版      倉岡


文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。