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雲の影を追いかけて    第1章「前半」全14章


第1章

 夜寒の蛇口から流れ出る冷水を、頭上から浴びるように高尚な文字を追い続け、衒学的な口調を偏愛し、文学の泉に潜り込む。安普請の六畳一間のアパートで、握り拳で容易に穴が空いてしまいそうな薄い壁を背にし、世紀の文豪が残した小説を眺めた。日に焼け古色を帯びた本を、いったい何度読み返しただろうか。ページを捲る度に、懐かしい紙の香りの上に印字されている文字が突如として変貌する。いや、実際は文字が変貌しているのではない。心的、体的、時間的、宇宙の変動、四季の遷移、刹那的人間関係の合縁奇縁、そういったものが、文字を通して覗き見る世界を新しいものへと書き換えている。それは文豪が墓から蘇生し、人の心情に合わせ、瞬時に書きおろしているような世界だ。文学とはそういったものではないか、と本を片手に黙考した。

 裕は小説の次章を読みたい気持ちを抑え、栞を挟み、本を閉じる。いつの間にか時が過ぎ、磨りガラスから西日が差し込み、部屋は薄暗くなっていた。

「夜勤まで、もうひと頑張りするか」

 乾いた口で独り言を呟くと、脚に力を入れ立ち上がる。隅に佇む冷蔵庫からパックに入ったお茶を取り出し、コップを使わずにそのまま口を付け飲んだ。小説を読み、心の泉は満たされていたが、身体は枯渇していた。冷たいお茶が体内へ染み込んでくる。

 水分を補給して活力が漲り、椅子に座り、机上のノートパソコンの電源を入れた。起動後、執筆中のファイルを開き、キーボードを叩き、小説を書き進めた。キーボードは、心情に合わせ軽快な旋律を奏でる。パソコンの白い画面には、溺愛する文字が宮大工の匠が組み木をするように、規律正しく並び続けた。

 緊張と弛緩を繰り返しながら小説を書き進めた。いつの間にか、日が沈み、窓から差し込む日差しが消え、室内はパソコンの明かりで不気味に色付く。パソコンの液晶にて疲弊した目を擦りながら、白熱灯を点けた。壁にかかった時計を見ると二十一時を少し回っていた。深く溜息を吐き、書き進めた小説をしっかりと保存し、電源を落とした。

 椅子から立ち上がり、天井へ手を伸ばし大きく背伸びをした。長時間同じ姿勢で椅子に座っていたため、凝り固まった筋肉が喜びの声を上げる。

「えっと、今日は誰と一緒の勤務だったかな・・・」

 壁に貼った勤務表を眺めた。十数人の名前が並ぶシフト表だ。曜日と日付を指先で追って、夜勤が被る勤務者を探した。

「お、今日は田中さんだ。良かった。良かった。大学生と一緒じゃ、疲れるからなあ」

 室内干しの洗濯物から制服を外し、畳まずに鞄の中に入れ、読みかけの本と携帯電話も入れた。アパートの鍵を閉め、帰宅を急ぐサラリーマンの波に逆らいながらバイト先へと向かった。

「いらっしゃいませ」

 田中の大きな声が、牛丼屋の店内に流れる音楽を掻き消し、食べ残しが落ちたカウンター下の一隅まで響く。

「あ、裕君か。おはよう」

「おはようございます、田中さん。今日は一緒のシフトですね」

「うん。よろしく」

 互いに頭を下げると、裕は従業員通路を抜けて更衣室に入った。皺のついた制服に着替え、胸元に名札を付け、ヘンテコな帽子を被って厨房へ向かう。

「おはようございます」

 厨房に入ると、東南アジアの留学生が挨拶をした。裕も挨拶を返し、引き継ぎ事項の有無を確認した。留学生は片言の日本語で、引き継ぎはないと答え、厨房から足早に去った。

「田中さん、今日はフロアと厨房どちらをやりますか?」

 裕はシンクに手を入れ、客が食べ終えた丼を洗いながらフロアで動く田中へ問いかけた。牛丼屋の勤務は、厨房で牛丼を作る仕事と、フロアで牛丼を提供する仕事に分担されている。

「裕君のやりたい方で良いよ。僕はどちらの仕事も好きだからね」

 田中の額の汗が、照明にて輝いていた。

「僕は厨房をしますね」

「はいよ」

 田中は返事をし、フロアを駆け回った。

 裕は厨房内での仕事を始めた。終電が去る零時を回る迄は、入客数が多く休憩をする暇がない。辟易する忙しさだ。しかし、深夜の空き時間に読書をするために、一晩かけて行う清掃作業などを、俊敏に片付けてゆく。勿論、注文が入ると清掃の手を止め、牛丼の盛り付けを丁寧に行う。勤務年数八年を超えた腕前は、誰も文句を言えないほどのステージに達していた。

 酩酊する団体客が退店し、店内は裕と田中の二人となった。

「はー。やっと落ち着きましたね。久し振りに忙しかった」

普段より入客数が多く、時刻は午前一時を回っていた。

「そうだね。裕君の深夜作業は終わった?」

「はい。何とか終わりました。田中さんは、フロアの清掃終わりましたか?」

「こちらも、何とかね。最近、皆が仕事をサボるから、店内が汚くなっているよ。僕らの深夜作業が増えてしまって、困るんだよね」

「バイトのほとんどが留学生ですからね。言葉の壁も有りますし、注意の方法が難しいんですよ。まあまあ、疲れたので裏でゆっくりしましょう」

「そうだね」

 二人は客から見えない厨房奥へ行き、陳腐なパイプ椅子に座った。牛肉を煮る匂いが骨の髄まで染み込む厨房だが、裕は客が居ない時間と空間を好んだ。



 裕は二十一歳の春に大学を中退した。起業精神が湧いたなどという、社会的に立派な理由ではない。文豪の残した小説を溺愛する理由で文学部を専攻していたのだが、学問へ打ち込む気力を失った。大学という名の若い男女のテーマパークにて、友人を全く作ることが出来ず、更には心が動かされる教授と出会うこともなかった。退学し、社会の流れから逸脱することへの恐怖心はあったが、本を読み、迫り来る恐怖は糊塗した。

 退学後、実社会へ傍若無人に放り出され、生活費と家賃、奨学金の返済額は身を削ってでも稼がないといけなかった。親の臑を嚙るわけにはいかない。正社員として働く選択肢を学んでおらず、時給が高い牛丼屋の深夜アルバイトをしながら、変わり映えのしない生活を送っていた。

 牛丼屋のアルバイトは残業が殆どなく、至って単純労働だ。店長以外は全てアルバイトで構成され、歪みのある人間関係を構築する必要もない。仕事外は、雛鳥の初飛行のように心が解き放たれ、心身共に自由だった。

 二十五歳の時から、読書の傍で小説を書き始めた。恐らく純文学だろう。短編と中編の数作程書き終わり、作品をいくつかの新人賞へ投稿した。

 現在は二十九歳。職業を記載する際には、二度見する程の小さい文字で「アルバイト」と記した。



「最近の執筆活動は順調かな?」

 田中は、本を読む裕へ問いかけた。

「はい。まあまあ、順調ですね。可もなく不可もなしと言った感じですかね。執筆は加速することもなく、低迷することもないんです。至って地味な作業なんです」

「でもでも、凄いよね。花子出版の文学新人賞を受賞したのでしょ? 同じバイト先で一緒に勤務出来て誇らしいよ。良いなあ、賞を受賞出来るなんて。僕なんて、中学校時代にたまたま上手く描けた絵画が、町内の絵画コンクールで入賞したくらいのもんだよ」

 目尻に小皺を作って微笑む田中の瞳が、ビー玉のように輝いた。

「ありがとうございます。でも頂いたのは、賞金の五十万と賞状ですからね。受賞のお金は、生活費と顔も見たことのないアパート大家の懐へ消えてしまいました」

「そうかあ。それは残念だね。でもね、僕は裕君が書く小説が好きだなあ。何か光るものがあるよ。川端康成のような、煌びやかな文章だ。うんうん。そうだそうだ。えっと受賞作の題名は・・・」

「『月の雫』」

「そうそう。いやあ、久々に活字で感激したよ。若者の瑞瑞しい恋愛の話。本当にしびれた。僕も恋愛したくなったなあ。こんな歳だけれど」

「そう言って頂けると嬉しいなあ。時間を掛けてしっかりと書き込んだ甲斐があります。まあ、もう少し読書する人が増えると嬉しいですけど。最近は携帯電話で動画を見たり、ゲームをしたり、SNSをすることが娯楽の主流ですからね。本を買って、本を読むなんて、ちょっと時代錯誤なのかなあ」

「そうだねえ。電車に乗っている時に周囲を見渡してみると、ずっと携帯電話を凝視しているよね、皆。なんだか、ちょっと異様な光景だよね」

「うーん。まあ、便利な機械ですので、嵌ってしまうのも頷けますねえ」

「まあねえ」

 田中は腕を組み、眉を顰めて難しい顔つきをした。

「あー、書いた本がもう少し売れるなら、副業しないで執筆活動に専念し、小説家として確立出来るのになあ。今入ってくる印税なんて、雀の涙程の金額ですよ。
 著名人や芸能人が書いた本なら、稚拙な文章でも飛ぶように売れます。こんな牛丼屋でアルバイトをする男が書いた小説なんて、そもそも話題性から欠けていますよね。売れなくても仕方ないですよ。文章の良し悪しではありません。
 例え話、僕が芥川賞取っても、本が売れなければ質素な暮らしをしなければならないのです。まあ、別に資産家になるために文学を志している訳ではありません。例え話です。芥川賞を取っても、いつの間にか消え去った小説家さんなんて五万と居ます。芥川賞の価値って一体なんなのでしょう。そして、これから日本の文学界はどこに向かうのでしょう。すみません愚痴っぽくなりました」

「話題性か・・・。文学の本質は話題性や売り上げではないと思うな。僕の意見は。まあ、これも時代なのかね。リストラされアルバイトに勤しむ、妻や子供に逃げられた中年から、あれこれ言われても、何の慰めにはならないだろうけど」

「いえいえ、そんな事はないですよ。田中さんと話すと、落ち着きます」

「ありがとう。あ、お客さんが来たようだ。行ってくるよ。裕君は読書をしてて良いよ。あとで交代しよう」

「いつも、すみません」

 田中は笑顔を作り、客へ大声で挨拶をしながら厨房を出ていった。裕は田中の後ろ姿を見届け、視線を本に戻した。しかし、自分の惨めさに嫌気がさし、目の前に並んでいる文字が頭に入らない。

 小説を執筆し、出版社が編集し、製本された本が本屋に並ぶ。一般的には高尚に聞こえるかも知れないが、本が売れなければ作家は生活困窮者だ。三十歳手前の裕は、非正規のアルバイトをし、将来の保証がなく、未来の展望もなく、読書と執筆で毎日を過ごす。実情を思い浮かべると、悔しさが身体を貪り、うっすらと涙が浮かび、白目に血管が浮かび赤くなった。

 本を閉じて、瞼を強く擦った。何か大きな変化を起こさなければ、この沼のような闇から抜け出すことは不可能だ。力強くパイプ椅子から立ち上がった。

 注文時の甲高い機械音が厨房内に鳴り響く。空の丼を手に取り、白米をよそい、タレの染み込んだ牛肉を丁寧に盛り付けた。

「あれ、裕君。泣いているの? 大丈夫?」

「いえ。小説を読んで、少しばかり感傷的になりまして。へへ。はい、牛丼の並、出ます」

「裕君は感傷的なんだね」

 田中は笑顔を作り、牛丼を客へ運んだ。

 その後、二人は厨房の裏で雑談をし、客の来店時には牛丼を提供し、配送物が届くと冷蔵庫に入れた。

 


第1章 「後半」へ続く。







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