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雲の影を追いかけて    第1章「後半」全14章


第1章「後半」


 清澄な朝日が、聳え立つビルの間を摺り抜けて牛丼屋へ差し込む。二人は出勤前の会社員へ、途切れる事なく牛丼を提供し続け、終業を待つ。夜勤の疲労が足腰に蔓延り始め、裕の声が幾分小さくなっていた。打って変わって、田中に疲れた様子はなく、元気に接客を続けていた。

 交代勤務者の主婦へ仕事を引き継ぎ、二人が牛丼屋を出る頃は、街が眠りから醒め、慌ただしく動きだしていた。裕は、朝の街が奏でる希望と倦怠の音色に耳を澄ませた。大きく息を吸った。街の埃が喉を掠めた。

「お疲れ様でした。田中さん明後日は勤務ですか?」

 田中は鞄からシフト表を取り出し、目を細めつつ朝日が反射するシフト表を眺めた。

「えっとねえ。あ、仕事だね。裕君も仕事になっているよ。店長の計らいかな」

「計らいだと良いのですが。それでは、お疲れ様でした」

「はい。お疲れ様」

 互いに頭を下げ、別々の方向へ歩き出した。

 裕は、休み前の勤務後に河原で読書をする事を日課とし、行き交う人を避けながら歩き出した。腕時計と見ると、十時前を指している。牛丼の匂いの染み付きを感じ、シャワーを浴びたい気持ちを抑えた。

 暫く歩くと、コンビニエンスストアが目に入る。店内入り、目に入った新聞と、野菜ジュースを手に取った。新聞を読まないため、偶には旬な話題に触れるのも良いだろう、と購入した。コンビニエンスストアを出て、のんびりとした歩調で河原へ向かった。

 数日前の沛雨にて、濁りはないが河の水位が増し、上流から流れてくる水の音がいつもより荒ぶっていた。裕は土手に生える夏草の上に、いつものように腰を下ろし、袋から野菜ジュースを取り出し、ストローを刺して飲み始めた。整備された河川敷を、談話しながら散歩する人がいた。

 裕は背中で足音を感じた。

 すると、夜勤中に思慮していた自分の置かれている実情が、胸を締め付け始めた。河原には、感覚を削る雑音や牛丼の匂いがなく、そして同僚も居らず、胸を締め付ける力は勤務中とは格段に違い、痛烈なものだった。

 刺したストローから、液体を吸い出せない。いつのまにか、野菜ジュースが空っぽになった。ストローの口を鼠の捕食のように、細かく噛みながら新聞を取り出した。新品の紙の匂いがする。お金がなく、好んだ作家以外は古本ばかりを購入していたため、新聞の香りが新鮮な気分を運んできた。

「えっと、最近の話題は・・・」

 新聞の一面を眺めると、事故や事件の報道記事が、見知らぬ会社の広告を交えて櫛比していた。

「暗いニュースばかりだな。畜生。仕方ない、芸能ニュースでも読むか。おっ」

 裕の目に結婚のニュースが、弓矢の如く飛び込んできた。

『衝撃の三十歳の年の差結婚
 日本映画界の大物俳優、岸本順次「五十九歳」が、女優の渡辺咲子「二十九歳」と結婚を事務所が発表。渡辺咲子は現在、妊娠三ヶ月目・・・』

 記事を凝視し、まばたきも忘れる程に何度も何度も読み返した。だが、普段読んでいる文豪の文章とは違い、記事を読み返すもその情景が手に取るように浮かぶことは、微塵もない。それどころか、記事の見出しの『年の差婚』というワードが脳内に溜め込んだ語彙の泉の中で渦巻き始めた。流れは濁流の如く激しい。渦巻きを止めようと意識するも、止める事が出来ない。仕方なく別のページをめくって眺め、一旦心を平静に戻そうと取り組んでみた。だが、渦巻きの流れは一向に変わらなかった。疲れているだろう、と自分へ言い聞かせ、鞄へ新聞を乱暴に突っ込み、夏草から立ち上がった。

 疲れた足を引きずり、不穏な渦巻きを脳内で育てながら自宅へ向かった。

 自宅へ帰宅し、水のシャワーを全身に浴びた。身体の匂いは石鹸にて排水溝へと流れ去ったが、『年の差婚』というワードの渦巻きは、未だに消える事はなかった。身体を拭き、くしゃくしゃの下着を着ると布団に倒れこんだ。仰向けになる。灰白色の天井から視線を外し、遮光カーテンの隙間から覗く青空を瞳で追った。そこには、果ての無い澄んだ空が広がっていた。空とは相反し、脳内で渦巻く不穏な『年の差婚』というワード。何故に、ここまで苦しめるものなのかと、眠りに向かう足に、一本歯下駄を履かせ思慮に耽った。

 初めに心に浮かんだ理由は、根深い嫉妬だった。紙面で読んだ『年の差婚』の夫婦は、有名人で裕福に暮らせる金もあり、生活困窮者より悠々自適に暮らせる筈だ。置かれている立場の違いは、歴然だ。裕が育った家庭は、世間一般の公表している平均年収未満の一般家庭だった。兄もおり、テレビゲームや玩具や流行りの洋服などは一切買ってもらえなかった。親族のお下がりの洋服と制服を、来る日も来る日も着た。お下がりの小さい洋服ばかりを着たため、身長が伸びないのではないだろうか、と心底思い悩んだこともあった。又、拝金主義に染まらない教養を受けておらず、お金持ちになることこそが幸である、という偏った思想が幼心に残っていた。

 二つ目は、多様性という美辞麗句と社会実情の乖離に対する怒りだ。『年の差婚』でのお決まりが、金や名声がある男と、若い女の結婚という、所謂出来レース。高尚な言葉を吐く動物的な思考に反吐が出る。

 三つ目は、本を愛読し、毎日小説を書いている自分の惨めさへの絶望感だ。現代の文豪を目指し小説を書き、崇高な仕事をしているようだが、一向に開けない暗黒の未来が、根雪のように全身へ重く伸し掛かる。

 このような様々の感情を、堀り起こしつつ、不穏なワードの渦巻きを子守唄にし、深い眠りに向かった。安眠を助けるように、遮光カーテンを揺らしながら乾いたそよ風が入り込んだ。




第2章へ続く。





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