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雲の影を追いかけて   第12章   全14章



第12章

 祥子の携帯電話へ病院から電話が入った。裕と祥子はタクシーに飛び乗り、病院へと急いだ。車窓から見えるビル街に粉雪が散らついている。二人は無言のまま手を握り合った。

 病院へ着き、病室へ入ると、数人の看護師が和夫のベッドを囲み、慌ただしく動き回っていた。暫くし、主治医が病室へ入ってきて、裕と祥子に向かって和夫の死を告げた。心電図のモニターが映す波形は止まっていた。和夫の口が半開きになり、瞼は遠くの景色を眺めるように薄っすらと開いている。看護師が和夫の身体を丁寧に拭いて回った。

 裕は看護師の邪魔にならないよう和夫の手を握った。死んだ和夫の手は、まだほんのり暖かかった。強く握ると、和夫が握り返してくるようだった。手を離し、祥子を見た。祥子は和夫の耳元で、「さようなら」と言った。

 祥子は身内も居らず、特定の宗派もなく、和夫の意向で家族葬をすることに決めていたため、死後の行程はスムーズに進んだ。祥子は涙を一粒も流すことがなかった。心の準備をしていたのだろうと、涙目の裕は考えた。
 


 一連の式が終わり、裕と祥子は和夫の遺品を整理した。ある程度の私物は生前に処分していたが、まだ多く残っている。

「ねえ。生きるってどう言うことかしら。私達もいずれは死ぬ訳でしょ。勿論、私の方が先に死ぬと思うけれど。死んでしまったら、冥土へは何も持っていけないわ」

「難しい質問だね。この前話していた青年の美学の話を覚えている?」

「ええ。覚えているわ」

「僕なりに吟味してみたんだ。僕が思うに、生きるという事は、雲の影を追いかけることだ、と思うんだ。僕ら人間は、いつ現れるか分からない雲をずっと待っている。現れる時もあるけれど、殆ど現れることはない。いや、実際に現れているけれど、ネオンの光だったり、ブランド品だったり、宝石だったり、一見可憐に見えるものに心が奪われ、やっと現れた影に気付かず、そしていつの間にか影は消えている。
 本物の美を持つ影に気付ける人間は少ないんだ。だから影の存在にいち早く気が付き、その影を追えることは、とても幸福なことだよ。
 僕は祥子さんという、いずれ消え去る雲の影を追い続けている。心から美しいと思えるものに気付くことが出来た。これ以上の幸せはない」

「私って、そんなに美しくないわよ。肌だって皺くちゃだし、足腰もどんどん弱っていっているのよ」

「雲の影を想像してみて」

 祥子は瞼を閉じた。

「ねえ。思い浮かべた雲の影はそんなに綺麗なものじゃないと思うんだ。降り注ぐ日光を柔和にしてくれる存在だからね。綺麗である必要もない。でも、それが僕にとっては一番良いのさ」

 祥子は瞼を開けた。

「裕君って、変わっているわね。だから、私達は結婚出来たのかも知れないわ」

「うん。そうかも知れない」

「私も裕君の影を追いかけても良いのかしら?」

「うん。僕は、消えずに祥子さんの頭上に留まれるように頑張るよ」

 裕は、祥子が高校生の時に負った心の傷を想像してみた。多感な時期に負った深い傷。その恐怖は死ぬまで癒えることはないだろう。祥子の影を追いかける意味合いは、もしかすると祥子の傷に対して、慈悲の心や、義の心、あるいは話題性という名の大波に乗ってしまい、岸から離れ過ぎて引き返せなくなったという後悔の一種かも知れない。しかし、自身がどんな心境であろうとも、祥子の儚い影はゆっくり移動し、いずれ消滅する。そんな影を追い続けたい、と強く思った。

「ねえ。父さんが残した本はどうする? 古本屋に持っていく?」

「いや。売らずに取って置こう。まだ読んだことのない本が沢山あるから。時間をかけて読み進めるよ」

「私も読んでみる。介護や、お見舞いの時間がなくなって、これからゆっくり出来ると思うわ」

 祥子は和夫の入院時の荷物の中から、数冊の本を取り出した。その中に『月の雫』の本もあった。

「裕君の『月の雫』の本、こんなにボロボロになってしまった。また読み直したかったのになあ。父さんったら、死ぬ前はずっとこの本を読み返していたのよ」

 祥子が持っていた『月の雫』のカバーは剥がれて無くなり、ページも縒れていた。裕は祥子から本を受け取り、ページを捲った。随所に和夫の力無い書き込みがあった。死を目前にして、書き込む力の低迷が目に浮かぶ。最後のページに辿り着いた。そこには、

『生きるとは、極めて愉快なことなのかも知れない』

 と書かれていた。今迄の書き込みとは違い、明瞭で力強く、巨大な生命体へ立ち向かうような覇気が宿っていた。その一文を何度も読み返し、和夫が何を考えて、書き込んだのか想像してみた。

 生前、『個人の幸せ』を追求しないといけないと、和夫は言っていた。思い起こしてみると、女婿に対して本心で言っているとは決して思えない。自分の娘の不幸を願う親はいないだろう。裕の幸福を願っての発言だったのだろうか。もしかすると、和夫は裕の行動を見通しての発言だったのだろうか。真偽は分からないが心の霞が晴れてゆく。

「ねえ、何か面白いことが書いてあったの?」

 祥子が裕に問いかけた。裕は和夫の書いた一文を祥子に見せた。

「まあ。父さんたら、評論家ぶっているのね。あっ、そう言えば、父さん『文芸評論家になりたい』と言っていたのを思い出したわ。だから数多くの本を読んで、自分の意見や感情を明記するようになったのよ。でも実際のところは、銀行員で一生終わってしまった」

「和夫さんの視点は面白い。僕は好きだな」

「そう言ってくれると、父さんが書いた評論とも言えない稚拙な一文も浮かばれるわ」

 裕は『月の雫』を和夫の一文を包み込むように閉じ、本棚の本と本の隙間に入れた。多くの本に埋もれ『月の雫』は本棚の一部へと溶け込んでいった。少し寂しさを感じたが、本来あるべき場所に戻ったような気がして、胸を撫で下ろした。

「ねえ、今日私たちが初めて行ったレストランに行きましょうよ。もし良かったら、田中さんの家族も誘ってね」

 裕は小さく頷いた。それから、祥子は田中の母に連絡し、レストランの予約を取った。


 レストランの前に、田中の母が独りで立っていた。花柄のロングスカートを履いている。前回会った時より腹周りが一回りも大きくなっているように、裕の目に映った。田中の母は、裕と祥子の姿を見つけると、両手を大きく振って迎えた。

「こんにちは、田中さん。遅くなりました。待ったでしょう」

 祥子が田中の母に挨拶した。

「うん。さっき来たところよ。さあ、寒いから早く入りましょうよ。美味しそうな香りが漂っているわ。もう、お腹と背中がくっつきそうよ」

 田中の母は大きなお腹をさすった。

 店内に入ると、前回来店時と同じウェイターが三人を席へ案内した。裕は彼の顔を覚えていたが、彼は覚えていないだろう。裕の表情を見ても、表情をピクリとも変えなかった。

 席に座ると、祥子が三人分のコース料理を注文する。田中の母は、物珍しそうに辺りを見渡していた。裕も田中の母に釣られて、周りを見渡す。前回来た時の、格式高い場所に放り込まれたような感情は生起しなかった。それは、編集者や講演会の主催者から格式高いお店へ招待され、雰囲気に慣れたからだろう。又慣れた感情とは別に、祥子と初めて来店した時の、熟した檸檬を齧った時のような甘酸っぱい感情を味わえないことへ哀愁を感じた。

「裕君。ごめんね。息子が来れなくて。今日はどうしても、お店に行かないといけないみたい。今朝まで夜勤だったのに、昼前にはお店に行ってしまったのよ。やっぱり店長は大変だわ」

 田中の母は、済まなそうな表情を作り、裕へ頭を下げた。

「いえいえ。『社員になって忙しくなった』と言っていましたからね。責任感の強い方ですので」

 裕は田中が来なかったことに少しだけ安堵した。夏菜子のことを話題に出されると、回答に困惑する筈だ。

「裕君は芥川賞の受賞以降、本当に大きくなったわね。出した本はどれもベストセラーだしね。この間出版したミステリーちっくな小説も、すごく面白かったわよ。もの凄い才能ね」

「そんなこと有りませんよ。芥川賞の話題性に上手く乗れたと言いますか。運が良かったと言いますか。今執筆に専念出来るのは、祥子さんが居たからですよ」

 裕は祥子の顔を見た。祥子は恥ずかしそうに頬を染めた。田中の母は祥子の顔を見て、笑みを浮かべた。

「祥子さん。本当に素敵な人に出会えて良かったわね」

 祥子は頷いた。

 ウェイターが三人の会話を遮るように、テーブルに料理を並べ始めた。田中の母の目が、玩具を見る無邪気な子供のように輝き出した。祥子は田中の母の表情を見て微笑んだ。

 三人は並ぶ料理を一つずつ食べた。

「美味しかったわ。こんな美味しい料理を食べたのは初めてかも知れない。祥子さん、誘ってくれてありがとね」

「お礼が出来て良かったわ。ねえ、裕君」

 祥子は裕を見た。裕は、「そうだね」と答えた。

「ねえ、裕君。もし、息子の紹介で、見合い相手に私が来たら、私と結婚したのかしら?」

 田中の母からの問いに、裕は田中の母の表情を見ながら、顎に手を当てて考えた。記者会見で慣れ親しんだ流暢さは飛び出さず、回答に詰まった。

「あら、やだ。考えちゃったりして。祥子さんを見た時は、直ぐに目の色変えたのに。失礼しちゃうわ。私だって、まだまだイケてるわよ・・・。って冗談よ」

 三人は顔を見合わせて、哄笑した。声が店内を席巻し、忙しそうなウェイターが三人のテーブルを振り向いた。

 レストランの外に出ると、日が傾き、北風が冷たかった。別方向へ帰る田中の母に軽く挨拶をし、裕と祥子は並んで歩いた。路肩で育つ街路樹に小さな豆電球が鏤められ、夕暮れの街を明るく照らしていた。老若男女、多くの人が交差してゆく。

「ねえ。イルミネーションが綺麗ね」

 裕の腕を握る祥子は言った。祥子の声に合わせて白息が広がり、裕は季節の遷移を感じた。

「うん。とても綺麗だね」

 裕は白息が混じる小声を出した。



第13章へ続く。





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