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雲の影を追いかけて    第2章「前半」全14章


第2章「前半」


 携帯電話の着信音が鳴り響き、安らぎに満ちた暁闇が鋭利なナイフで裂さかれた。裕は一度も起きることなく十二時間以上眠りに就いており、固まった身体を動かし携帯電話の画面を見た。画面には花子出版の編集者の名前が浮かんでいた。通話ボタンを押し、携帯電話を耳に当てた。

「おはようございます。杉下です」

 編集者の杉下の甲高い声が携帯から溢れた。裕と杉下は、新人賞受賞からの繋がりで、出版や取材にあたり定期的に連絡を取る間柄だ。メールでの瑣末なやり取りが多く、電話は数える程だ。そんな杉下からの早朝連絡は初めてで、声から察するに只事ではないようだ。

「おはようございます。朝、早いですね」

 裕は枯れた声で挨拶をした。

「すみません。寝ていましたか?」

「はい」

「それはすみません。ですが、聞いてください・・・。実は、裕さんの『月の雫』が芥川賞の最終選考に選ばれました」

 声の余韻が響き続け、狭苦しい部屋の壁を押し狭める。裕の思考が刹那的滑落を起こした。

「え、本当ですか?」

「はい、事実です。正直言いますと、私もびっくりです。ですが、本当に嬉しくてたまらない。やっぱり、私の見る目は間違ってなかったと言うことですよ。えっへん。えっと、それで選考会が丁度一ヶ月後です。毎日ドキドキで過ごしましょう。そして、絶対受賞しましょう。折角、ここまできたんですからね」

「朝から朗報をありがとうございます。受賞出来ると良いのですが・・・」

「受賞しましょ。絶対に、絶対に。詳細等は、追って連絡しますね。早朝に起こしてしまい、すみません」

「いえいえ、ありがとうございます。では失礼します」

 裕は終話ボタンを押した。

 室内は静寂に戻ったが、裕の心情が荒波を立て始めた。毛布を跳ね除けて起き上がり、冷蔵庫から紙パックを取り出し、お茶を飲み込んだ。勢い余って握る紙パックの角度が垂直になり、大量のお茶が流れた。お茶は口から溢れ、下着を濡らし、床を濡らした。だが、冷たいお茶は干魃に降り注ぐ雨のように、不可欠なものとなり、溢れるお茶に悔いはなかった。数える間もなく、パック内のお茶は空になった。

 幾分の時が経ち、桃源郷から冷静な世界へ引き戻された。足元に広がった水滴を眺め、下着を脱ぎ、脱いだ下着で水滴を拭いた。お茶の染み込んだ下着を洗濯機へ放り込み、牛丼屋の制服と一緒に回した。

 遮光カーテンを開けて朝日を取り込み、椅子に座りパソコンの電源を入れる。普段は苛立ちさえも憶えるパソコンの起動に時間が、優雅な時間に思えた。起動後に、芥川賞の公式ホームページを閲覧し、最終選考欄に自分の名前を発見した。

『月の雫  岸田裕』

 再び、緊張と高揚を素早く繰り返し、先程の杉下からの電話が幻想や偽りではなく、紛れのない真実であると受け止めた。重苦しい扉が解錠され、きらびやかな未来の光を垣間見た気分だ。高鳴る感情を抑えるため、書き進めている小説の原稿ファイルを開き、キーを一度叩いてみた。乾いた音が鳴った。しかし、次のキーを叩こうとするも指先が細かく震え、一向に前に進めない。瞼を閉じ、肺に溜まっている息を吐き出し、瞼を開けた。そして、もう一度キーを叩こうと試みるも、震えが止まらない。

 埒が明かないため、パソコンの画面をパタリと閉じた。

 身体を内側から眺めた。腹部が暖かい。いや、腹部が熱い。冷めきった感情の塊根へ希望の熱湯をかけ、溶け出した熱い感情が腹部を遊泳しているようだ。

 身体の現象を驚きはしなかった。むしろ、生み出されている熱が全身を隈なく巡り、別の生命体へと開花してほしいとさえ思った。

 手の震えを気にしながら室内を見渡しと、読みかけの文庫本が枕元に転がっていた。飛び込むように布団で仰向けになり、文庫本を手に取り、小説を読み進める。高揚する感情の荒波は、次第に穏やかになってゆく。

 読書と昼寝を繰り返し、出勤時間まで過ごした。

 日が落ち、時計が出勤の時間を指した。洋服に着替え、制服を鞄に入れて玄関へ向かった。玄関には、読みかけの新聞が入るビニール袋が雑に転がっていた。手に取り、紙面を眺めると、『年の差婚』のワードが蘇ってきた。しかし、そのワードは以前の不穏な語彙ではなく、煌びやかな語彙へ変わった。裕は希望への緒を掴んだ気がしたのだ。

 玄関を飛び出し、牛丼屋へ一直線に向かった。


第2章 「後半」へ続く。




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