『なんか鎌倉』
「いざ鎌倉」とは、緊急事態になった時の慣用句だが、私の場合はなんとなく会社の最寄りの駅を通過して、なんとなく鎌倉に来ている。
そう。今日はゴールデンウィーク明けの5月8日。
自分がいなくても回る仕事。いずれやめていく社員たちへの教育。人間関係の調整に勤しむだけの上司。挙げればきりがないほど、仕事に行かなくていい理由は思いつく。
別に仕事が気に入っていないわけではないし、いずれAIにとって代わられるようなホワイトカラーの分析業だ。アクセス数を見ながら、情報を見てこなしていくだけで、手取りはいい。
そんな俯瞰したような思考で頭を一杯にすれば、乗り過ごすなんてことは簡単だ。
休めと言われて、すぐに休めるわけでもなく、連休を数日過ごしてようやく休むことに慣れた頃に、仕事をする。何かおかしなシステムがまかり通っている。
私は社会に否を唱えるわけでもなく、ただ足が動かなかった。
そうして終点まで来てしまう。時間は有限だ。
コロナ禍で、嫌というほど自分自身と向き合わされて、人生の時間と仕事にかける時間を考えると、別に一日ぐらいサボっても世の中が回らないなんてことはない。
そうして社会的責任から逃れてみると、波の音が聞こえてきた。
平日で曇天だというのに、サーファーはいるし、ハンバーグ屋は時間になれば開けてくれるようだ。
コンビニで買ったコーヒーを飲みながら、ぼーっと休む。
そうだ。生き物は回復しながら生きていくんだ。
休みだから、なにか趣味に追いかけなければならないとか、せっかくの休みだからこの際遠出をしようという圧力に負けていた。
皆が働く今日こそ休み、英気を養うというのが人間社会の在り方なのではないか!
そんな言い訳をしつつ、しらす丼の店を探してしまう。
とりあえず時間を潰そうと鶴岡八幡宮に行くと、自分だけでなくサラリーマンらしき人たちが銭洗い弁天で、お金を洗っていた。どうやらお金を稼ぐというのは、運が必要なようだ。
きっと彼らも会社に行くことが嫌になったのだろう。
だいたいコロナ禍では、リモートワークでよかった仕事をどうしてわざわざ電車が混んでいる時を狙って出社しなければならないのか。
管理者の安心感のためという理由以外が見つからない。そう思ったら、管理者の心の安定のために働くことほど馬鹿なことはない気がしてくるから不思議だ。
管理者の束の間の安定よりも、しらす丼の方が社会的価値も世間的評価も人類史上で見ても生物学的研究の見地からも圧倒的に重要なことに思えてくる。
ぐぅ。
そんなことよりも人生で必要なことは、しらす丼だ。
腹が鳴るほど空腹状態なのだから、体調は万全。どうせだったら少し汗をかいてから、食べた方がいいかと思い。江ノ電にも乗らずに歩いてしらす丼を食べに向かった。
もちろん気持ちだけで、一駅歩いたら疲れてしまって、結局は乗ることになる。
バスケットボールマンガで有名な駅を過ぎ、しらす丼のお店に到着。
すぐに大盛りしらす丼を頼み、お茶で口を湿らせて、出来上がりを待つ。
磯の香りを胸いっぱいに吸い込み、唾液の分泌量を上げた。そう。食事とは能動的なものだ。漫然とこなしている仕事とは違う充実感がある。
食べている間は、堪能して頭は真っ白。ただただ美味しかった。
「ご馳走様でした」
味、香り、風味は元より、店の清潔さも店員の対応も完璧だ。
腹が満たされると、不満も出なくなる。
お腹いっぱいでいられること。
きっとこれが働く源であれば、それほど迷わないのだろう。腸の中には脳と同じくらい神経細胞があると聞く。
心より腹。胸よりも腸と関わる仕事を探そう。
今の仕事は、大学のインターンの頃から続けているが、どうやら選択を誤ったらしい。
他人よりも自分に認められる仕事をすると、ちゃんと前に進む。職場を辞めていった新人たちの気持ちがようやくわかった気がする。
でも、どうせなら、生活費を稼げるような副業にしたい。
とりあえず、会社で検索しようか。隣の社員と相談するのもいい。
俺は会社に電話をかけた。
「すみません。ちょっと電車を寝過ごしました!」
なぜか俺の声は自分でもわかるくらいに晴れやかだった。
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