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やさしくなりたい

もっと他人に優しくなりたい。感謝される人になりたい。

先日、自分の冷淡さを感じずにはいられない出来事があった。
ひとりで散歩をしていた。アパートからちょっと離れたところまで、普段行くことが少ない方面に向かって歩いていた。横断歩道で信号待ちをしている、自転車のおばあちゃんがいた。私もそこを渡りたかったため、立ち止まった。すると「ちょっとお尋ねしたいんだけど、○○町ってどのあたりですか?」と、そのおばあちゃんに聞かれた。私はこの辺りのことは詳しくないし、その地名を言われてもわからなかった。だから「私この辺詳しくないんです、すみません」と言ってしまった。つい、そう答えてしまった。

その場を離れてから思ったのだけれど、調べればよかったよね。スマホを持っていたんだから、調べることができたよね。
でもそのときは、”調べる”と考えに全く至らなかったのだ。

私が言ったことは嘘ではない。本当にわからなかった。いじわるのつもりじゃない、面倒だからそう答えたわけでもない。本当にそのときは、調べるということを思いつかなかった。

ごめんね、見知らぬおばあちゃん。

そのときに思った。私はなんて冷たい人間なんだろう、と。
誰にでも親切にできる人は、わからなくても調べたのだろう。”調べる”ということを自然と思いつくのだろう。たぶん。
調べるという”ひと手間”を思いつかない時点で、私は冷たい人間なのかもしれない。かなり反省した。


私は「優しい」と言われることが結構あった。よく学校である「○○さんのいいところ」的なものでは、真面目や頭良いに続いて「優しい」と書かれることが結構あった。でも、いつも不思議だった。私はあなたに優しくしたことがあっただろうか、と。
基本的に私は口数が少ない。だから、クラスメイトに向かって、直接厳しいことを言ったり怒ったりはしてこなかった。つまり、性格がきついわけではない。イコール「優しい」になっていたのかもしれない。それか、特に書くことがないからとりあえず当たり障りのない「優しい」を書いていたか、どちらかだろう。うん、そうだろう。

母親に私の良いところを尋ねても、マイペースや計画的とともに「優しい」が入っていた。これは理由がわかる。私は本当に大切な人、大好きな人には優しくできる。家族のことが本当に大切で、大好きだから優しくできるのだ。

でも、これじゃいけないよな、とも思う。そんなに親しくない人にも、他人にも、優しくできる人でありたい。おもいやりのある人でいたい。…人間嫌いの私には難しいのかもしれないけれど。


今回のおばあちゃんの件では、本当に反省した。それとともに自分の冷淡さにショックを受けた。しかし、今までは同じ出来事があっても、こんなに気にすることはなかったと思う。これは自分の中でなにかが変わっている証拠なのか??

すごく考えさせられる出来事だった。おばあちゃんには申し訳ないが、こんなに考えるきっかけをくれてありがとう。また同じようなことがあれば、もっと優しい私でありたいな。

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