前世は、たぶん、犬。
妙な悪癖かもしれないが、「近しい人の匂いを嗅ぐのが好き」という習性がある。
かつて、一緒に暮らしていた恋人の靴下を嗅ぐことが習慣になっており、
ランドリーボックスの中に入っている靴下を深夜にこっそり嗅ぐ時間が好きだった。
間の悪いことに、一度だけ恋人にその姿を見られたことがある。
彼からすると、彼女が夜中に脱衣所でしゃがみ込んで自分の靴下をスゥーハァーしているのだ。
悲鳴を上げられてもおかしくはない状況だろうが、懐の広い人だったので
とんでもない速度で靴下を取り上げられ、ドン引きされただけで事なきを得た。
そんな習性があるので、前世が犬だったのではないか、と時々思うのである。
だが、匂いを嗅ぐことが好きというだけではなく、ときにはその匂いによって体調を左右される不運な出来事もある。
例えば、最近通勤電車のなかで隣席になった若い女性が鞄から総菜パンを取り出したときの話をしよう。
女性が袋を開けてすぐに、マクドナルドに充満するフライドポテトのような古い菜種油の匂いが鼻孔を擽った。彼女は幸せそうにパンを頬張っているが、隣に座った私から言わせると(社会的な)生死に関わる重要な問題である。
私は、三半規管がすこぶる弱い。
初めて車を出してもらうツレの運転や、長距離移動のバスに乗る時には必ず薬を服用するほどである。
同じく通勤電車も、その日のコンディションや気温によっては酔ってしまうことが多い。
急行が出すスピード×揺れ×匂い(香水、食べ物)の相性は抜群に悪いので、
どれだけ目を閉じて音楽を聴いていても車酔いの妖精が襲ってきてしまう。
さらに私が通勤に使っているすみれ色の電車は、酔い覚ましに一度途中下車するという選択肢が取りづらいのだ。
始業時間に遅刻するリスクも上がるし、都心に出ていく人が多い沿線のため次に同じ電車に乗り込んだときには座れる確率はゼロに等しい。職場に着くまで、1時間以上も立ちっぱなしで人混みに耐えなければならなくなる。
すると、酔う確率もぐんぐんと上がり、更に体調が悪化するという悪循環に陥る。
急行で50分の会社に、わざわざ鈍行を使って1時間20分かけて仕事に行っているのは自分の体調を配慮してのことだ。
隣のお姉さんにも、電車の中でパンを食べなければならないのっぴきならない事情があるのだろう。けれど、こちらも電車の中で食べられては困る事情がある。
頼むから朝ごはんは家で食べてくれ、と思った。
匂いが好きだったり、匂いに振り回されたり、同じ犬なら「ここほれワンワン」が出来る昔話のタロウのようにドリームジャンボの1等が出る宝くじ売り場を嗅ぎ分ける能力でもついていればと思うのだけれど、
私が今もせせこましく労働しているということは、つまりはそういうことなのだ。
人間は人間らしく、粛々と生きるしかないのだろう。
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