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あきらめの行動

3月上旬のことだった。
「はなくらさん、ちょっと」
私は上司に呼ばれた。
「はい……」
そういいながら、なに? 何の話? と鼓動が早くなっていた。
「まぁ、座って」と言われソファに座った。

うちの家族構成は、夫と、この春社会人になった息子と、大学2回生の娘と、そして私。隣には夫の両親がいる。4月から娘は家を出て下宿。息子は就職を機に下宿先から家に戻り、家から通うという新しい生活が始まった。
今まで、毎朝の愛犬の散歩は娘の役割だったため、4月から「誰が散歩行く?」と、これが第一の課題だった。
ちなみに、4月からのみんなの出発時間は、主人、息子、私の順。一番出発時間が遅い私が行くのが目に見えていた。

 「はなくらさん、ちょっと」

上司の話は、異動の内示だった。
少しは覚悟もしていたけれど、言い渡された瞬間はやはり驚いた。
まずは家族に報告だ! 「私、異動だってよ」とファミリーLINEに送った。
「あらあら」と、家族はそんなに驚いた様子もなく、犬の散歩大変やなぁなんて送ってきた。
異動したところで、私の出勤時間は一番遅い。
トホホ……やれるだろうか。
犬の散歩だけじゃない。新しい環境に身を置き、果たして貢献できるのだろうか。
不安しかない。

4月はすぐにやってきた。
異動で勤務地が変わる。環境が変わるということだ。
これまでの経験は役に立たない。このとき自分は何を軸にして毎日を過ごせばいいのだろうかと考えた。

仕事を通じて出会った中小企業診断士のT先生という方がおられる。
その先生から習慣についての話を耳が痛くなるほど聞いた。
自らの意思でつくった良い習慣、例えば早朝の勉強やウォーキング、これらはある時自分の変化に気づくとおっしゃる。そして悪い習慣の例としては、忙しさを理由に目の前の仕事に追われ、深く考えない日々が続くという状況。こういった悪い習慣は簡単に断ち切れないということを、私はよ~く知っている。
ダラダラとお酒を飲み続けるとか、寝る前のスマホ、……やめられない。
でも、毎日自分の時間を持つこと。これをなんとか習慣にしたいと思う。

仕事はどうだろう。
私は地域の小規模事業者さんの経営支援を仕事としているため、経営計画、事業計画の作成支援を常としている。支援には事業計画の作成がメインになっていたりするが、先日T先生が、
「中小企業には経営計画、起業にはビジネスプランで対応し、支援していたが、計画通り進んだためしはない。無残にも計画書はほとんどが紙切れになり捨てられた。プランがなくても、成長する人は成長する。企業も同様である。プランの有無に関係なく発展する企業はどんどん発展する。ビジネスプランがなくても起業できる人は起業する。」
とコラムに書いておられた。

これは、痛いところをつかれた。
たしかに計画通りいかないし、無残にも紙切れになり捨てられることが多い。でも、先生と違って私は計画が不要とは思っていない。計画って一度は作ってみないと、目の前のことにばかりに気を取られ、成り行き経営から脱却できないのではないかと私は考える。
未来を予想することは不可能だし、新型コロナウイルスのこともある。この先、何が起こるかわからない世の中で、過去の経験やデータはあまり役に立たないということはよくわかっている。でも未来のことを考えることは絶対必要。どうなっていたいかを考えるのに計画の作成を利用するというのが私の考え。計画通り行くわけないけど、どこに向かいたいのかを確認するために作成した計画が役に立つと思っている。
自分自身もどうなりたいのかを意識し、このとき何を軸に生きるのか。といったことを毎日考えるようになった。
 
 そんな中、私はあるドラマに心を動かされた。それはちょっと前、最終回を迎えた「にじいろカルテ」というドラマ。このドラマは過疎地の日常が描かれていて、その日常の中で様々なトラブルや問題が起こるが、すべてが愛によって救われていく。こんな優しい世界に生きられたら。そう思った。今ではドラマの中で流れる「にじ」や「旅路」を聞いたら泣ける体質になってしまっている(笑)
ドラマはただ平和で優しい世界を描いている訳ではない。いろんなつらい出来事があり、どうにもならない苦しみがあって、その状況での登場人物たちの思いや行動が描かれている。ドラマの中のセリフは、決して自分中心の言葉じゃなく、周りの立場も考えられた上での言葉で、私にはめっちゃ染みた。みんないろいろあるけれど、置かれた状況を受けとめ、そして受け入れ、解決に向けた行動をとる。そうやって過ぎていく日々がドラマになっていた。
 これは仏教でいう「諦める」(明らかにする)ということかもしれないと思った。一般的に「諦める」というと、願いが叶わずその思いを断ち切るというもので、国語辞典にも「もう希望や見込みがないと思ってやめる。断念する」と書いてある。
ところが、仏教でいう「諦める」は「諦観(たいかん)」と書き、「あきらかにみる」が元。これは「真理をあきらかにみる」ということで、明らかに観る事、現実をありのまま観察する事を意味し、どれだけ精一杯やっても、どうにもならないことはあって、これをどうにかしようと苦しむのではなく、物事の理(ことわり)をはっきりした上で、その理に合わないことを捨てるのだよ、とお釈迦様は教えてくれている。
 物事を真正面から見る。言い訳やごまかしなしに受け入れる。対策をたてる。実行する、そうやって繰り返しながら、どうにもならないことはそれを受け入れるのみ。その中で今ある幸せに目を向ける。きっと、こういうことなのだろう。蒔かぬ種は生えないが、蒔いた種は生えるという教えもあるぐらいだ。真理をあきらかにみること、そして精一杯やることが種を蒔くということじゃないかな。

 今やるべきことは

「自分の日常をこういう気持ちで過ごすこと!」

 私はそう思っている。

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