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「LGBT見るのも嫌だ。」発言に対して思うこと。


日本でワークライフバランス、働き方改革という言葉をよく耳にします。
人生に応じた様々な働き方があることでしょう。
そしてそれは男女という枠組みに限定されたものではありません。

そんな中、ある閣僚の発言が物議を醸しました。
「 LGBT見るのも嫌だ。」
この発言は非公開取材の発言、記者によって明らかになったものです。
報道では「差別的だ。」と非難するコメントもありました。

この報道で私は一つの用語が浮かびました。
それはマイクロアグレッションという用語です。
マイクロアグレッションとは、当事者であるのかないのかに関わらず、受け手側によっては発言や報道が意図せずに相手を傷つけてしまうものとなる危険性があるということです。
そのような危険性をなくしていくためには、
発言を意識的に変えていく必要があるということでもあります。

主観的なものとして私は「LGBTに関する不適切発言」の報道を聞く度に疲弊感があります。
報道の在り方としてメディアは問題発言を話題性のあるものとして一方的に取り上げるのではなく、そういった部分を
視聴者に対して問題を提起するような対話型の報道を目指すべきではないのでしょうか?

身近なものとして体験談を書きます。
BL(ボーイズラブ、男性同士の恋愛を描いたもの)の話題になった時、ある一人の発言で「男同士の性行為は気持ち悪い」との発言を耳にすることがありました。私自身はその発言が主観的なものであるという点から、怒りを感じることはありませんでした。
しかしもやもやとした瞬間でした。

立法機関ではこれまでに何名かの議員による不適切な発言がありました。
その度に「辞任すべきだ。」という追い込み風潮のようなものが存在している。
議論もなくうやむやになり、本質の問題には触れることなく
次に火種がうつっていく。

そこで私はいくつかの問いをあげます。
○一方的な感情や怒りをぶつける対象になっていないでしょうか?
○民主主義の根幹である話し合い(議論)は適切に行われているのでしょうか?

構造的な問題や本質に対しての追求に関するもの。
それに対する民主的なプロセスや議論が相互間で欠落しているような気がします。

最近、ある一冊の本を読みました。
参考になる本なので紹介、推薦させていただきます。

「北欧の幸せな社会のつくり方」
著者 あぶみ あさき

出典資料 秋田経済新聞記事より


この本では北欧の市長選挙の様子が取り上げられていました。
一部では選挙期間中に市長と市民がゲームしたり、コーヒーを飲んだりとラフな様子で施策について話あっていたりと、政治家や市民という壁はない距離の近さが印象的でした。
先日、イギリスの公務員(教員)が適正な賃金引き上げを求めるために国家に対してストライキを行っている報道を目にすることがありました。
参加者は様々な年代の方が参加し、
私自身そうした一人ひとりの意識の違いに対して驚きました。

他国と比較すると「民主的プロセスにおける議論の欠如」は日本の問題点である。
私達が意識することで、問題に対して相互に議論を行う
手掛かりになっていくのではないでしょうか?

 Hana Tomaru(はな とまる)


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