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結論は必要なのか

noteへの投稿を始めて1ヶ月近くが経った。
最初の方は自分の生活についてや経験についてなど、スラスラと何の問題もなく毎日書き綴っていた。

だがしかし、だんだんと書き続けるうちに自分の中で一つの疑問、というよりも悩みが湧き出てきた。

それが、タイトルにもあるように「noteに結論は必要か」ということである。noteという場で、素人ながらにも他人に自分の書いた文章を見てもらうのなら何か結論、つまり主張が必要なのではないかと思うようになった。

主張を見つける、または自分で抱くようになるために手っ取り早いのが、何かしらの社会問題に絡めて記事を書くことだろう。今ならオリンピックやらなんやらでいくらでもそれらは見つかるに違いない。

だが、それは私のnoteにおけるポリシーに大きく反する。私は自分のページには誰かが見た時にホッとしたり共感したりできるような、何でもない何者でもない、平凡な日常や思いを書いた記事を載せたいと思っている。だからこそ、社会問題について書くことだけは避けたい。社会問題について主張する時には必ず誰かしらを批判しなくてはならないからだ。ここ最近のインターネット界隈における「批判」とは、すなわち「正義」という無敵のこん棒で影から誰かを袋叩きにすることを意味しているように見えてならない。noteという場では私は絶対にそんなことはしたくない。


そんなこんなで突き詰めていくと、私が書きたいことは究極的に生活に必要のないことなのだ。私が今日何をしたかや、私の好きな食べ物、色についてなど知ったところでどうにも何にもならないことばかりだ。

では、「私は何を伝えたくて書くのか」こんなことが浮かんでくる。

それは、これまでもいくつかの記事に書いてきている通り「誰かが共感できるような何でもない普通のこと」であるのだが、そうするとやはり結論、とまではいかなくても自分の記事の締め方がわからなくなってしまう。この記事の締め方(ある種の結論)については往々に悩んでいてそれが今回の記事にもなっており、ここまで700時を超える文章でつらつらと述べているが解決のための名案は何も浮かばない。

一般的に言えば他人のnoteや出版された本から文章を学ぶ、ということが1番の解決法に違いないのだろう。だが、私的にはそれも何だがしっくりこないというか何というか。依然としてどうしていいのかもわからない。

という具合なのであるが、こんな感じで明日以降も何かしらの記事は投稿するに違いない。いや、それもわからない。さて今後私はどんなnoteの記事を書いていくのだろうか。そんなこんなでこの記事も結局結論も出ないまま、終わらせていただくとする。


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