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ジャーナリズムな思考。


じょう-ほう【情報】
①ある事柄についてのしらせ。「極秘―」
②判断を下したり行動を起こしたりするために必要な、種々の媒体を介しての知識。「―が不足している」
③システムが働くための指令や信号。

かい-しゃく【解釈】
文章や物事の意味を、受け手の側から理解すること。また、それを説明すること。「古文の—」「悪く―する」

じ-じつ【事実】
①[史記荘子伝]事の真実。真実の事柄。本当にあった事柄。「―関係」「―を曲げる」「―上の支配人」
②[哲]本来、神によってなされたこと、またそれが世界として与えられていること。転じて、時間・空間内に見出される実在的な出来事または存在の意。実在的なものとして幻想・虚構・可能性と対立し、すでに在るものとして当然的なものと対立する。個体的・経験的なものとして必然性はなく、その反対を考えても論理的には矛盾しない。
③[副詞的に]ほんとうに。じっさいに。「―僕は何もしゃべっていない」

しん-じつ【真実】
①うそいつわりでない、本当のこと。まこと。「―を語る」
②[副詞的に]ほんとうに。全く。「―驚いた」
③[仏]あるがままであること。究極のもの。絶対の真理。真如。

しん-ずる【信ずる】
①まことと思う。正しいとして疑わない。「霊魂の不滅を―ずる」「身の潔白を―ずる」「勝利を―ずる」
②まちがいないものと認め、たよりにする。信頼する。信用する。「部下を―じて仕事をまかせる」
③信仰する。帰依する。「仏法を―ずる」
※【信じる】は【信ずる】に同じ

(すべて広辞苑より抜粋)



(注意事項)
 この先書かれていることは、今世界で起こっていることに対する、一個人の見解です。正しさは千差万別です。誰かと議論をするつもりはありません。ただひとつだけ、理解していただきたいことがあります。







 わたしは愛する人を守りたくて、書いています。ただ、それだけです。














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 わたしの祖父は、プロ野球選手だった、らしい。


 この記事を通して自慢をしたいわけではない。事実、そうだったらしいのだ。しかし残念ながら、祖父の口からそうと聞いたわけではない。わたしが小学生になる前に他界した祖父の記憶はほとんどなく、親や親族からそう聞かされ育っただけで、その勇姿を映像や写真で見たことがあるわけでもなかった。


 だから、”プロ野球選手” という華々しい世界の存在を大人になるにつれ知ったとき、『おじいちゃんが?この人たちと同じだったの?まじで?』と、親や親族を疑うわけではないのだが、正直なところ、実感が全くなかった。『二軍の選手だったとか、きっとそんなことだろう』と、真に受けずに勝手な解釈をしていた。


 法事で親族が集まったとき、祖母が『孫たちには見せたことがなかった』と言って、古い新聞の切り抜きや雑誌に掲載された、祖父の偉業を称えた記録表などを見せてくれたことがある。それを見てようやく、『嗚呼、結構、活躍した人だったんだ』と、孫一同祖父の遺影に向かって、『疑ってたわけじゃないんだけど、なんかごめんねおじいちゃん!』と手を合わせたという、ちょっと微笑ましい想い出がある。

 現代のようなメディアがあるわけではない時代の、プロ野球選手。いわゆる ”芸能人” という便利な言葉で一括りにできてしまうほど、野球好きからそうでない人にまで広く知られていた人物ではなかっただろうと思っている。ここで祖父について詳細は書かないけれども、祖父が現役でスタメンで出場した年には優勝していて、誰もが知る、歴史に名を遺した超有名選手と紹介するにはおこがましいけれども、誰もが知る、 ”世界中のボランティアの共同作業によって執筆されるフリーの多言語インターネット百科事典” で調べれば、その名がヒットするくらいには、存在が認知されている人物。らしい。


 この某有名百科事典。誰でも編集できることが特徴なのだが、そのおかげで祖父について、わたしたち親族にとって波紋を呼ぶこととなったエピソードがある。















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 ある日、親族の誰かがノリで、祖父のことを検索エンジンで調べた。すると、前述の通り名前がヒットした。某有名百科事典である。


『すごいねー、出てきたよ!』


 ページを見ていくと、確かに名前、生年月日、所属していた球団、成績等々の情報のそれは、祖父のものだった。


 しかし。


『あれ?おばあちゃん、おじいちゃんの出身地って〇〇県なの??△△県じゃないの??』

『しかもよく見たら、まだ生きてることになってるよ!』


 親族だからわかることである。ささやかなざわつきが起こるも、『生きてることになってるの?やばー!』『直せるよね?直しちゃえば?』という会話になった。


 そこで誰かが、出身地を修正し、没年を追記した。当該人物の親族からなる、”ボランティアの共同作業” によって。












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 月日は流れ、そんな出来事を忘れていた、ある日のこと。


 わたしはお仕事でお世話になっている方たちと、食事をしていた。雑談のなかで、自分の家族や家系、家業の話などになった。当然わたしにも話題は振られ、祖父が野球選手だった、という話になった。


 『すごいね!有名じゃないって言ったって、そんな人たくさんいるわけじゃないんだから、すごいと思うよ!』と言われちょっと嬉しかったのだが、『おじいさんのお名前は?』と聞かれたため答えると、検索エンジンで調べ始めたのである。某有名百科事典の情報を表示され、読み上げられた。


『(名前)さん
——年——月——日生まれ—―歳、〇〇県出身。
××球団所属時代に——を記録し…』


 『え?〇〇県出身?』


 思わず遮って、聞き返してしまった。自分でも祖父の名前を検索し、某有名百科事典を表示してみた。すると…


 元に戻っている。没年も削除されていた。








 え?なんで?誰が?何のために?








 素朴な疑問が去来する。そして得体の知れない氣色悪い何かに背中でもつーっと冷たく撫でられて虫唾が走ったような、そんな感覚を憶えた。この場で発言しても仕方がないと思ったため言及はしなかったが、その後の会話はあまり入ってはこなかった。


 わたしたち親族の立場からすれば、明らかに誰かが改ざんしていると見える。別の見方をするならば、誰かが真実ではないことを真実だと思い込んでいるか、もしくは真実ではないことを真実にしたいと思い、結果的に改ざんしているのか…


 悪意からか善意からか、判断はできない。野球業界かそのファンに、”某有名百科事典をパトロールする人物” なるものが存在していて、わたしたちが修正した祖父にまつわる情報…戸籍上の出身地と既に他界しているという真実が、その団体もしくは人物にとって、なぜか真実ではなかった。故に、誰かの手によって ”修正” がなされた。それが錯誤とはいえ、『ただ誤った情報を修正しました』というだけの、あくまでその誰かの善によって任務的に行われたものなのか、ただの悪意なのか、どちらでもないのか。皆目、わからない。


 超有名選手でもなんでもない祖父の情報が誰かの手によって改ざんされることに、払拭できない疑問が残る。なぜだ?さまざまな角度からのアプローチを試みたけれども、非常に理解し難く、ただただ氣持ちが悪かった。


 誰かの手によって、捏造される情報がある。あるとは知っていたが、自らの祖父を通してそれをまざまざと見た瞬間だったことは、言うまでもない。
















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事実というものは存在しない。
存在するのは解釈だけである。



 ニーチェの言葉からわたしが受け取っている解釈は、人は自分が見たいように物事を見て、解釈したいように解釈し、信じたいものを信じる生き物だ、ということである。


 わたしたちにとっての祖父にまつわる事実は、誰かにとっては事実ではないらしい。本当に亡くなっていたとしても、だ。なぜこんなことが起こったのかは誰にもわからないと見えて、もはやどうでもよい。しかし、出身地や死亡年月日という客観的事実を捏造して、誰がどんなふうに得をするんだろうか?という視点を持つことはできる。わたしはこの視点を、この経験から学んだように思う。


 事実はどこにも存在しない。あるのはただただ、信じたいものを信じたいように解釈するという、人間の特性のみ。


 ここから、現在世界中で問題になっている流行病と、製薬会社が人類に接種させようと必死にばら撒いているあの液体について言及するが、最初に書いておく。わたしは、テレビを観ない。というか家にテレビがない。ネットニュースだってほとんど閲覧しない。悲しいニュースを見て『ふーん』で終わり、次のCMが流れる頃には忘れている人間ではなく、この慈悲に触れると簡単に揺れてしまう感受性の持ち主だと自ら言い添えておく。ネガティブな情報を積極的に取りにいったところで何の得もないし、自分自身のエネルギーが下がるだけだ。注目したものが拡大するという大原則を理解しているから、嫌な情報を仕入れるのは嫌に決まっている。愛について考えていたい。楽しいことだけしていたい。しかしこの件については、自分と大切な人を守るためには、自ら情報を精査し、信ずるべきものを見極め、流されないことが必要であるから、『打て』という情報も、『打つな』という情報も、両方取りにいった。これまでこの話題に関して書くつもりはなかったのだが、残念ながら多くの人が、生きる上での自己責任を放棄し、情報を精査せず右向け右であることがわかってきて、思った以上に憤りを憶えている。だからわたしは、書くのである。


 あの液体に何が含まれているのかを調べた上で、打つ、打たないの判断をしている人が、一体どれくらいいるのだろうか?あの製薬会社が、過去に人体実験をして死者を出し、報告義務を怠って処分されていたことを知っているだろうか?あの液体を打った人の今日までの死者数を知っているだろうか?流行病から解放されると期待してあの液体を打ったことにより、ある国では数日前のデータだが6,000人近くの人が死んでいる。インフルエンザ用のあの液体よりも88倍の死亡リスクがあるというデータの存在を知っているだろうか?ある人が、『家族があの液体を打ったあとに死亡したが、病院から連絡は入っているか』という厚労省への問いに、『(6月に入って以降)膨大な数の死者数の報告があって調べきれない』と回答をしたことは?これをどう受け止める?あの液体を打ったあとに膨大な数の死の報告があると国の機関で働くオペレーターが言ったということは、公になっている死者数など氷山の一角に過ぎないと言っているようなものだ。今現在、あの液体接種後、日本で200名近くの死亡が公表されているようだが、日本で何人死んだのか、本当は誰もわかっていないのだ。これをどれくらいの人が知っているだろうか? ”愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ” というが、子宮頸がんのあの液体のときだってそうだ。打て打てと国は推し進めたが、いろいろあって結局取りやめたじゃないか。結局国は、国民が何人死んだって責任などとってはくれないだろう。人類はいつだって、何も学んじゃいない。


 周りの人にこれらの情報を見せた。話した。知っている人もいたが、圧倒的に知っている人の方が少ない。知らない。なぜだ?調べないからだ。そして話すと、『え…打とうと思ってたけど…』という反応が多い。流されて打つつもりだったのか?申し訳ないがわたしには理解できない。


 調べれば調べるほど、あの液体を打つ合理的な理由が見つからない。掘れば掘るほど、『こんなのおかしい。人の沙汰じゃない』という、憤りしか生まれない。誰が得をする?考えたらわかる。結局どこからアプローチしても、政治、オリンピック、製薬会社、マスコミ…世界を牛耳っている輩たちの、金と権力に行き着くのだ。


 もっとたくさんの情報がある。知りたければご自身で調べたらわかることだ。わたしは、これらの情報を調べられる限り調べた。どちらの主張も見た。そして精査した。日本の現状は?世界の現状は?なぜ反対意見がある?誰が得をする?情報と情報を繋げていく。推察する。そしていつも、吐きそうになる。悲しくなる。見てはいられなくなる。


 そして、わたしの答えは一択だった。






『絶対に打たない』

















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 手の届くところから守ろうと決めた。まずは家族。愛すべき家族。母、弟家族、妹家族。妹は子供が生まれたばかりだ。みんなみんな、愛してる。何事においても決めるのは本人だから、どんなに望まない結果になっても受け入れるしかないという覚悟の元だったが、『安心したいから、お願いだから ”打たない” と言って』と、懇願している自分がいた。理由を説明すると、家族は皆、同意見だった。本当に本当に、守られている、ありがたいと思った。亡き父やご先祖様に感謝した。


 友人にも会う人会う人、この話題になると伝えている。『わたしはこう思う。なぜなら、こうだから』と。その中で感じていることは、みんな、どちらを選んでも、『こわい』と思っていること。徹底的に調べるまでに至っていないこと。これは短期的な問題だと捉えていること。そして、右向け右が、明らかに多いこと。


 調べろ。徹底的に。自分の命がかかってるんだ。


 テレビから勝手に流れてくる情報に左右されるな。もし万が一何かあったとて、誰のせいにもできない。右向け右で生きている人たちは、何かあったときには往々にして誰かのせいにする。不利益を嘆き訴える。そんな輩に興味はないし、守ってやる必要もない。わたしは手の届く範囲だけでも守りたい。自分にできることはすべてしたい。だからこうして、書いている。


 【信】という字は、『人』が『言う』と書く。何を信じるのか、誰を信じるのか、どうやってそれを判断するのかは、人それぞれだ。わたしは、『この情報は本当に正しいのか?』という目線で、どの情報も精査して判断したつもりだが、冒頭にも書いたとおり、わたしという一個人の、ただの一般庶民の見解に過ぎない。わたしが言っているからといって、信じる必要もないのだ。だけどもし悩んでいる人がいるなら、全部、全部、徹底的にまずは、自分の責任において調べるべきだ。知るべきだ。そして、行動するべきだ。


 迷ってもいい。悩んでもいい。誰に相談してもいい。この世界には事実など存在しない。事実だ真実だと叫んだところで、人は信じたいものを信じるのだから。信じたいものを真実とし、我が物顔で真実だよと説くのだから。


 でも、最後は自分の責任において、自分で決めろ。


 緊急事態宣言という名の茶番劇がやっと終わった。しかし、流行病そのものよりも、愛を放棄して人間ではなくなった人間がすることのほうがよっぽど怖く、また、こんなにも右向け右の人間が多いとわかってしまった世界に、危機感以外に何を憶えろというのか。


 そこに、愛はあるのか?自分が信じようとしていること、真実としたいことは、誰かの自分勝手な既得権益や利益のために捏造されたものではなく、愛から出現したものなのか?一人一人が、もっとよく考えたほうがいい。








 こんな世界を ”緊急事態” と言わずして、何と呼べばいいのか。














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 お金と権力が大事な人たちにとっての不都合な情報は日々削除され続けているようですが、多くの勇氣ある方々のおかげで、たくさんの情報を得ることができました。中には顔を出して発信されている方もたくさんいらっしゃいます。勇氣ある方々に感謝を込めて。




flag *** hana



今日もありがとうございます♡







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