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わたしらしい思考。


確かミヒャエル・エンデの小説だったと記憶しているけれど、児童向けのファンタジー小説の中で、『人の髪の毛の本数を数える』というような職業のキャラクターが出てくる。昔々、通い詰めた図書館の一角でその本を読んだとき、このキャラクターに衝撃を受けていろいろと想像したことを、今でも憶えている。


『一日で仕事、終わるのかな?』
『終わらなくてお客さんが帰っちゃったら、次の日やり直すのかな?』


という現実的なことも幼いながらに想像したのだけれど、感じていたことというのはもっと別のものだった。こどもでは言葉にできない感覚が確かにあって、それを今、敢えて言葉にするなら、


憶えていたくても、零れていくものはある。
わたしたちはすべてを憶えてはいられない。
途方もないものの数を数えて生きていくのは、
なんて切ないことなんだろう。



というようなものだった。


”途方もなく無限に思われる圧倒的な数” というものに想いを馳せ、くらくらする感覚を憶えた最初の体験は、きっとこのときの読書からだったのだろうと思う。


















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かなり大雑把なところには目を瞑っていただきたいのだけれど、わかりやすい数字にしてこんなことを考えるときがある。


小学生のとき。わたしの学年は2クラスしかなかった。6年間、おそらく全員と同じクラスを経験したはずだから、1クラス25人とすると、関わった人数は6年間で簡単に50人。


中学校は4クラスだった。1クラス40人として、仮に3年間一度もメンバーが変わらなければ関わった人数は40人。毎年全員違っていたとしたら関わった人数の最大数は3年間で120人。


高校。大学…と現在まで考えていけば当然、関わった人々の累計数は伸びていく。関わった友人たちのご家族や、担任の先生、部活動の顧問の先生。たまに会う親戚や近所の人。スーパーの店員、病院の先生に看護師さん…社会人になってからなんて、どうやって数えたらいいのかもわからないし、きりがない。


おそろしい数になる。


今までに一体、どれだけの数の人々と関わり、一瞬でも言葉を交わしてきたのだろうか。


あの小説のキャラクターのように、すべて余すところなく数えることなんてできないのに、こうして振り返って考えてしまう。それなのに、憶えている人の数は、ざっくりとした数字の中の、ほんの、ほんの、一握り。


一体どれだけの人とすれ違いまた、手も振らずに別れてきたのだろうか。


わたしだけじゃない。









この世に生きるすべての人が、毎分、毎秒。
同じ体験を、している。


















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Twitterの月間利用者数は4,500万人。noteは6,300万人らしい。
リアルタイムのデータではないのだろうし、正確なのかなんてわからないけれど、何千万という数字に嘘はないだろう。


星のように、途方もない数字。


一生のうちに出逢える人の数なんて、わかりっこないし、知ったところで何かになるわけじゃない。図らずも記憶から零れてしまった人のことを想うとわたしは、切なくなる。


いわゆる ”天文学的な数字” と表現される途方もない数の中から、巡り逢える確率を弾き出すことはわたしにはできないけれど、”袖振り合うも他生の縁” という言葉が淘汰されずに現代も残っているのだから、誰にとっても出逢えた人というのは、よほどのご縁があるということ。オフラインであろうと、オンラインであろうと。


たとえ時間を共有するのが、この人生の中の。


ほんの一瞬であっても。



















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よく無意識的に捉われる思考があって、それは某自己啓発の能力開発ツールによると『運命思考』と呼ばれる資質。この資質がわたしは上位に入っている。


どんなものにも見えない繋がりがあって、分断され独立して存在しているものなどこの世界には何一つないという、思考というよりふわりとした感覚に近いもの。


たとえ直接繋がっていなくても、回り回って繋がっていて、どこかで円(縁)になって自分に還ってくる。その途方もなく大きな大きな環(わ)の中に、自分も、人も、自然も、あらゆる物質も含まれているという感覚には、何の根拠もない。なのに、なんの疑いもなく、知っている。


”言葉の海” は、この感覚から派生している。


映し鏡に見える、海と空。雨となって大地に降り注いだ水は、河になって海に流れ、そしてまた水蒸気として空へ還るのと同じように、繋がっているように見えなくても。







すべてはえんで、繋がっている。
















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今朝は目覚めてすぐに、近所の神社まで走りに行って、お参りをしました。


なぜなら今日は一年に一度、この命に、殊更に感謝する日だからです。


生んでくれた父母に。家族になってくれたきょうだいに。ご先祖様に。書き出したら切りがない、出逢ってくれたすべての人々に、殊更に感謝する日だからです。


わたしは今、人生で一番幸せです。これまでに出逢ってくださった数えきれない数の、たくさんの方々のおかげです。感謝以外の何もありません。公私ともに言葉の海を生きていられるのは、わたしの言葉を好きになってくれる方々が、いてくださるからです。ただひたすら、感謝しかありません。


感謝するのはわたしなのに、母からメールをもらいました。

あなたが生まれた時、一週間ずっと晴天続きでした。そのおかげで、あなたが産まれる前日に干した洗濯物のうち、父のジーンズの乾きが悪かったのでベランダに干したまま忘れてしまいました。

一週間干したままだった父のジーンズが、前だけ白く色褪せてしまったことを、今でも思い出します。

産まれてきてくれてありがとう。
これからも大事な人生。悔いのないように過ごしてください。


その頃からわたしは晴れ女なのかな…と笑い、そして亡き父は一週間、ジーンズが行方不明だったことに氣づかなかったんだなと笑ってしまいました。


産まれて間もない頃、父母と生活した小さなアパートの狭いベランダで、海と空のような青色のジーンズが、波と雲のように風に吹かれながら白くなっていくのを瞼の裏で再生しました。日差しはあたたかく風は冷たい初冬の海のように、あたたかいのにひんやりと切なくて、父に逢いたくなりました。


帰宅して珈琲を淹れて朝食を準備し、スマホを見たらメッセージが届いていました。


このnoteで出逢い、こんなわたしのことを姉のように慕ってくれる、この前初めて実際に逢うことができた、hachiさんからでした。

お誕生日おめでとうーーー!!
生まれてきてくれてありがとう!!


母と同じことが書いてあって正直ドキリとしました。もうこれだけで、うるっときてしまって。『ありがとう、こちらこそ出逢ってくれてありがとう』とお返事をしたら、こんなやりとりに。

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わたし、まあまあ世間知らずなところがあるので、”オンライン寄せ書き” なるものを恥ずかしながら知らなくて…本当の寄せ書きのような色紙みたいになったページが立ち上がりました。

言葉を失いました。
なんと22名の方から、お誕生日おめでとうと、寄せ書きをいただいていたのです。


『言葉で愛を送ったら、こんなに還ってきたよ。はなたんが愛だからだよ』と、言ってくれました。


彼女がひとり、みなさんにご連絡をしてくださったこと。みなさんがお忙しいなかお時間を割いてくださり、メッセージを考えてくださったこと。いろんなことがわたしの中を駆け巡り、日ごろ ”言葉の海” と豪語しておきながら言葉にならない事態に少し笑い、そして泣きました。


でも、言葉にならない想いを言葉にするのがわたしの使命であり、生き様です。自分の海を泳いで今、必死に言葉をつかまえています。


本当に本当に嬉しかった。朝に産まれたわたしが誕生日の朝に泣いたのは産まれて以来きっと、初めてです。宝物です。この場をお借りして、22人のみなさま。本当にありがとうございます。

















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わたしは与えられた命を、この先も言葉を紡ぐことに使います。出逢えた命やご縁を見つめながら、わたしらしく言葉の海を、泳いだり漂ったり沈んだりしながら生きて、愛を贈ります。







憶えていたくても、零れていくものはある。
わたしたちはすべてを憶えてはいられない。
途方もないものの数を数えて生きていくのは、
なんて切ないことなんだろう。


でも。


星の数ほど途方もないもののなかから、
出逢えた奇跡に感謝して。
贈られた愛を抱きしめて生きていけたら。
それはとても、幸せなこと。







逢ったことがなくても、顔も知らなくても、たとえ、時間を共有するのがこの人生の中の、ほんの一瞬だったとしても。


今ここにある言葉たちは、みなさんがわたしにくれたものです。あたたかな豊かさをありがとう。同じ時代に生まれて、出逢ってくださりありがとうございます。

















いつだって大切なものは。









目に見えないね。









flag *** hana



今日もありがとうございます♡







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