- モーン文化の観光資源開発における利益誘導について再考する。利益を重視するだけでなく、モーン族のアイデンティティや自然環境を重視した観光プランを策定することが重要である。例えば、エコツーリズムや持続可能な観光の取り組みを導入し、モーン文化の保護と地元住民の経済発展を両立させることができる。
バンコク郊外チャオプラヤ川のクレット島には「ビルマ人」と差別されるモーン族が住む。彼ら少数民族の私営博物館は日本で研究され博物館がひどいと評価されている。岡山理科大学の徳澤啓一先生は彼らの博物館の文化財管理がひどいという。さらにタイの独裁者たる国軍の御用大学カセサート大学を中心に、利益誘導なモーン文化の観光資源開発が行われ、彼らのアイデンティティも文化も自然環境も博物館学を専門とする人から見ると形骸化していると感づく。私はモーンを研究している大阪大学、神田外国語大学からこの地域は何も問題ないと主張しされ、私の大学院進学をさまたげられ、未熟ゆえに批判する言葉選びでもどかしい思いをしてきた。
モーン族の博物館の現状と課題 なぜ少数民族の博物館を守るべきなのか
私がいる放送大学では先住民の人権に関する研究を行なってきた。さらに博物館のユニーバーサルデザインを例に一歩進んだ博物館の存在意義という哲学を社会に提示した。近年、障害者のユニバーサルデザインが博物館でも法令遵守されるようになった。そもそもユニバーサルの語源はユニバース:「宇宙」である。美術館的な機能を果たしている「ロスコ・チャペル」や18世紀前半までの博物館だった「驚異の部屋」のザックバランに収集した資料を芋づる式で無秩序な陳列は人々が一種の宗教的真理を体験しそれを共有する場となる。密教美術と似ている。そのuniversの語源を調べると「存在する全てが合わさってひとつになること」である。とくに「驚異の部屋」の展示・陳列はヒトの世界宇宙への突きせぬ知的好奇心あらゆる存在の理を解き明かし把握したいという願望があらわれている。この当時の博物館は観客が大声で展示品に関しての会話が当たり前だった。博物館は博物館での体験を来館者と共有し、展示品と人々と社会がつながっていく場であった。
現在はビュフォンの系統学以降、展示を系統だて細分化して展示をしているものの、秩序だった自然界や宇宙観を表現しているといえる。近代以前から現代まで博物館は、一人一人の観客の個としての存在が担保されたうえでひとつの空間に共存し展示物との対話を介して体験の共有がうまれ、目に見えないエネルギーの交流を通して一つになっていくことが一貫としている。近年では障害者への目配りによってハンズオンや嗅覚、聴覚を用いた展示手法が開発されてきた。博物館は五感を知覚としてとらえ、知覚で感覚を感じるところである。つまり博物館とは人間が作った展示を人間が人間に見せることを通してひとつのユニバースを共有する場である。また感覚の復権、練磨、人間性の回復、自己と新たな目で見つめ直すための鍵となることが期待されている。これは大学universityの語源とユニバーサルが同じであるため、教育の存在意義である。
王権の権威の象徴だった博物館「陳列館」は18世紀後半から市民との関わり方が博物館の価値へと変わってきた。とくに「ウポポイ」のように展示される当事者が博物館経営に参加し、社会を動かしている。決して学芸員だけが博物館を動かしているわけではない。来館と学芸員のための利益を生む場所ではない。仏教で言えば縁起つまりこの宇宙にあるすべての存在が作り上げている。なおなぜ南方熊楠が高く評価されれてきたというと仏教哲学の宇宙観に基づいて今でいう博物館学を研究してきたからである。キリスト教哲学から仏教哲学の世界観から捉えられた博物館を作っても良いのではと考える。私は近代化による仏教生命倫理と景観の環境破壊を物語るクレットのムタウ仏塔はじめとする仏教文化財の展示などを見直す必要があると言える。
カセサート大学における問題と批判への対応 どのような条例があるのか
さらにユネスコと国際博物館会議ICOMにおける条文はなぜ博物館をなぜ守らないといけないのかが条文で明示されている
このICOM博物館定義の条文は改変するべきという声があり以下の条文が提案された。
またモーン族は隣接する共産国との関係、軍国主義の歴史教育観によってコラートを除いて先住民として政府に認められていない。タイやミャンマーでは中央すなわち王室や軍政の歴史観=国定教科書的な価値観が常識=正式な歴史:国史とされている。とくにタイでは中央の主要な民族であるシャム族と関係があるタイ北部のランナー文化を除いて地方の人々の文化財、歴史の価値が軽んじられている。またモーンが多くいるミャンマーはビルマ族の遺跡パガンだけが観光開発の収益=国軍の資金源となっており、それ以外の地域の文化財は戦災で破壊されている。そのような状況ゆえにミャンマーもタイのモーンも追い立てられ共倒れする恐れがある。このような状況で、少なくとも私はクレット島周辺では日本の右翼団体が韓国人を朝鮮人と言うように地域住民のシャム人がモーンについてビルマ人という差別発言を聞いたことがある。また独裁政権において独裁者が認めていない先住民を少数民族と呼ぶ場合がある。私は政府も日本のタイ研究者も先住民族の権利に関する国際連合宣言や博物館学のセオリーを遵守していないと考える。
私はバンコク周辺にある彼らの古代史跡を論拠に広義の先住民族として認められるべきと考えている。たとえ政府が認めなくとも全ての民族は平等であると書かれており彼らに対する権利を遵守しなければならない。政府に認められなくともその遺跡と彼らが触れ合う機会を提供することでアイデンティティの捉え直しされる可能性がある。さらに国連の先住民権利宣言にはその遺跡を含めた彼らの資料保存の意義に関わる条文があり、彼らの文化財は環境保全に活かせる可能性がある。彼らが住む地域は温暖化で水没の恐れがある地域だからこそ尚更重要である。また放送大学稲村哲也は野外民族学博物館リトルワールドの設立趣旨を例に文化人類学を扱う博物館の意義を述べている。
また先住民で限らず地域の博物館の存在意義は三重県立博物館の博物館使命は明示しており参考になる。博物館は地域文化の発展と新たな地域創造、利用者、子ども、地域住民ひとりひとりの成長につなげ、各各の関心や生活課題の解決や新たな地域づくりに取り組むきっかけを提供しようとしている。
問題がないと述べる方々へ
在日ミャンマーのボランティア団体で学芸員の存在を否定する輩、日本の東南アジア学者そして東南アジアのボランティアを行う学生団体が忘れていることはないだろうか?カセサート大学のユピン教授は観光こそ地域の発展だと主張して観光産業を進めた。この観光産業は独裁者たる軍が収益を上げるための国策である。この国策はタイ各地ではコロナによりオーバーツーリズム、ゾウの虐待、売春などについてが地元民を中心に問題視され批判されてきた。クレット島においては持続可能な観光やビルマ人という差別発言に対する抗議がYoutubeで声が上がった。しかしこのカセサートに長崎大学、東京外国語大学、椙山女子大学が無批判なく協力して、多くの地域研究者が問題ないと主著する。JICA:日本政府の都市開発という文化破壊行為と軍の歪な水害政策が絡む地域ゆえに日本人の教授らは忖度している。モーンの文化が消えてもおかしくない状況である。だから私はいくら権威を持った輩が批判しようが、条例を遵守しており自分の信念を変えるつもりはない。今年中に学芸資格課程の座学をすべて終わらせてやる。そしてこの記事を読んだ読者や地元民と共にモーン文化財を守る意義を捉え直し価値観を共有して活動してゆきたい
以上、観光産業の問題点についてご紹介しました。観光の発展と地元の文化保護は共存することが求められます。日本の学者やボランティア団体もこの問題に対して真剣に向き合うべきです。私たちも学芸員としての責任を持ち、モーン文化財を守るために活動していきます。この記事が多くの方々にモーン文化への関心を呼び起こし、一緒に活動するきっかけとなれば幸いです。ぜひ他の記事やnote更新もお楽しみください。