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恐怖と苦悩と聖職者②~兄が亡くなりました

死が目前にあると認めた兄は、その瞬間から、生と死への恐怖や苦悩を口に出すようになりました。

寝たと思ったら「死にたくない!」と飛び起きたり、「死ぬのが恐い」と突発的につぶやく。そして自分でも驚いて呆気にとられたりする。

あるときは、「苦しい痛い、何もできない、何も食えない。こんな苦痛なら死にたい。なぜ死ねないのか!」と細くなった体を悶えさせながら言うのです。

「死」は恐くない。ただ在るだけ。
仏教の教えのとおり、それまでの兄は、---本心は別にしても、私たちには達観しているかのように振舞っていました。

だけど今は恐怖と苦悩を露わにしている。
死を否応なく受け入れるしかなくなったとき、魂も身体も、とうに限界を超えていた兄という細胞の、すべての痛みが溢れだしたのではないか。
新たな、しかも人生で最も激しい苦しみが兄を支配しているようでした。

答えようがありません。

兄の絶望と苦しみに、いまどんな正論があるものか。
答えられないでいると、少しして、必ず諦めと申し訳なさそうな表情で、体を私たちから反らして目を瞑るのです。

絶望と不安を持て余したまま、兄は身も心も置きどころを失っている。

薄暗さに慣れた眼には、兄の身体や表情が、明るいときよりももっと奥まで鮮明に浮んで映るようでした。

大概のことには強い私も、この瞬間は耐え難い哀しみと無力感に襲われました。一粒でも涙を零せば大声で泣きだしそうだから、身体中の呼吸を止めて堰を死守するように、息が浅く浅くなる。身体ってよくできています。

聖職者のような力が必要
私は限界を感じました。
(続く)

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