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古民家をリフォームしていたら戦前の新聞が出てきた

戦前の新聞

奥の部屋をDIYで改造していたら押入れの柱に戦前の新聞を見つけた。

拡大画像はこの下にあります

我が家は十勝北部の農村地帯にある今年で築67年を迎えた古民家で、これが戦前の新聞であれば78年以上前、この家が建つより10数年以上前のものということになる。ほとんどがちぎれ落ちて縦に細長く数十センチ残っている程度だが、貴重な資料を見つけてしまったような気持ちになり、壁一面を合板で埋める予定を変更、紙面が見えるように保存しつつ工事をすることにした。

中央左側の柱に残っている

この家と敷地は今から約120年前に本土からやってきた一家が拓き、4代にわたって農業を営んできたものだったのだが、離農して久しく2020年秋にいよいよ更地に…となるはずだった。その一ヶ月前のある日、偶然前を通りかかった私は「理想そのものやん!」と家の写真を撮った。それから何時間も経たないうちにまさかの急展開があり、そしてまた驚くほど紆余曲折もなくこれを譲り受けることになったのである(後述)。

120年の歴史の上に建っている家が築67年、ということはそれ以前にも敷地のどこかに家屋があったはずである。聞くところによると、現在の家は今の場所より数十メートル南に建っていた家を移築したものだったらしい。何人かの建築関係者が「北海道の現存する住宅としてはかなり稀少な建材」「古い構造で本州の影響が大きい」みたいなことを言っていたのを思いだした。造り自体が67年よりもっと昔のものではないかということだ。なるほどそれだけ古いものが現存していたということは、一度基礎部分をやりなおし再生した経緯があったからなのかと(当時のものであろう五右衛門風呂や厠は庭に現在も建っていてどちらも使用可能)。すると今ある柱や梁、大引などの部材も67年よりもっと昔のもので、この新聞もかつての貼られていた柱と一緒に今の位置に移設された…と考えられるのではないか。

余談:一度移築したとは言え、それから67年も建っている家である。その間、厳しい風や雪に晒されてきたこともあり、かなり老朽化が進んでいた。このまま放っておくといつか住めなくなってしまうので、一定のリフォームは必要だった。特に一番奥にあるこの部屋は日当たりが悪くて湿気にやられやすいこともあり、外壁の内部や柱の根元が腐り落ちかけているなど大きな手直しが不可欠だった。そういった基礎部分のみ業者に手直ししてもらい(家自体をジャッキアップして新しい部材を入れるなど)、その後DIYで自分でウォークインクローゼットに改造してやろうと着手し始めたところだったのである。

ヂャヅ・ダンス

一番大きく残っていた紙面の上部には大きく「」、その左に小さめに「」と書かれてあった。またその下には横書きでプログラム、中央に縦書きで「初演 大小魔奇術」「天勝」、その左右にヂャヅ・バン、ヂャヅ・ダンス、音樂合奏、ヴアイオリン・、其他幕間〜、ール・ショウ一座、ヂー・ヴアジニヤ・娘子連…などの文字が並んでいた(太字でない文字はネットでざっくり調べた資料から推測したもの)。

天勝とは戦前に一世を風靡した女性奇術師、松旭斎天勝のことと思われる。そしてヂャヅ・バンドやカール・ショウ、ヂー・ヴアジニヤ、娘子連などは天勝が率いた一座の定番の出演者だったようで、この紙面は天勝一座の興業の広告だったと考えられる(天勝についてはネットでも資料が山のように出てくるので興味のある方は検索して頂きたい)。

天勝は1936年に引退しているので、本人であればこの新聞はそれよりも前、日中戦争以前のものということになる。ただ彼女は引退後に偽者が多数出現したことで同名の二代目を指名しているため、ここに書かれているのは二代目や偽者の可能性もなくはない。

ただ一点、カール・ショウ一座が引っかかった。今のところまだネット(如き)での調査でしかないが、大正14年を最後に天勝一座のプログラムからその名前が見られなくなっている。大正14年ということは1925年。するとこの新聞は今から98年以上前のものである可能性もなくはないということになる。しかし「なくはない」でしかない。

当選者に蓄音機を無代進呈!

次の記事も見てみよう。天勝一座の下の方には蓄音機のイラストらしき絵があった。そこにかかるように「〜字さがし」という描き文字があり、その下には[趣旨│■進呈品]とあり、またその下に
正解者■〜〜〜
呈■通知す。ユニホン蓄音機一■■
十打付)所謂■買代徴収の提供では

りません。當選者には前記蓄音機を無
代進呈して全國に實物宣傳を試みんと
するものです。
セルロイドラツパ付の蓄音機にあらず
東京市小石川局區内高田町水原六五九
日蓄商会宣傳部」
と書かれていた。今で言うモニター募集みたいな感じのことをクイズ形式でやっていたのだろうか。これは応募したいやんか。

考察:ここに書かれている住所の東京市は1943年に東京府と統合、東京都となるまで存在した自治体だが、小石川区(現在の文京区)は1947年まで存在している。またその下に高田町とあるが、小石川区の西側にかつて同名の自治体があり、1932年に4区合併で豊島区となるまで存在していた。この時に高田町の名前は消えているのだが、そう考えると「この新聞は1932年より前のもの?」「小石川局區内の『局』とは郵便かなにかで、小石川局が隣の高田町の業務を兼任していた?」などと思ってしまいそうだが、実は小石川区内にも高田町という地名が存在していた。1909年の古地図には既に記載されていて、現在の文京区目白台、関口あたりに位置しており、面積の非常に狭い地区だった。じゃあこの小石川区内の高田町はいつまで存在したのか…というと、ここからが調査できていない(汗)。もちろん見るべきキーワードは他にもある。日蓄商会宣傳部日本蓄音器商会という会社の内部部署のようで、この社名は1910〜1942年まで使われていたものらしい(42年から日蓄興業株式会社、46年から日本コロムビア株式会社)。よってこの記事は少なくとも1942年より前、81年以上前のものであると考えていいと思う。詳しい人なら「ユニホン蓄音機一■■」「セルロイドラツパ式にあらず」という説明で、さらにある程度の時代は分かるかもしれない。また日本蓄音器商会はユーホン1号という蓄音機を1911年に出しており、この紙面の下にある目薬の広告「精錡水」「岸田吟香」も、また天勝一座も、小石川区高田町も、1911年頃には存在していたらしい。ここまでの薄いコタツ調査だけで考えると「112年前の新聞記事でないという確証はない!」という夢を見ることができそうではあるが、考えてみればそもそもの肝心な文体の検証が抜けている。さすがに明治44年の新聞の文章として考えるるのは無理がないか。ニュースと広告の文体の違いはあるのだろうか。それも含めてこれだけ資料が揃っていればあと一息ですぐに色々判明しそうではないか。しかしこれを書き始めたのが2023年12月末。時間がない。「なんか古いの出てきたー」という日記的なnoteにするつもりが、「少しくらい調べたいな」から「中途半端な調査じゃコタツ記事みたいになってしまう」の危惧に発展し、そうなると当然の帰結「答え出てから書いたええやん!」に…。しかしそれはまた過去に繰り返してきた「そのまま二度と何も書かない」の危険も大いに孕んでいるし、年内にやりたかったし…。ということで予告編と解釈して今回はとりあえず調査はここまでとさせていただきたい(汗)。(注:ウチにはコタツはありません)

猫/年越し嘆く当歳馬

猫おるやん

また他の柱や天井の角材にも新聞を発見した。角の柱には猫のイラストがあり、「年越し嘆く当歳馬」という記事があった。

出火お詫び

まず詫びる因習は綿々と…?

「出火お詫び」「北海道木材防腐株式会社 北海道木材防腐協同組合 合併御挨拶」などと書かれている記事もあった。これらは字体や記事の内容からして、戦後のものだと思われる。このあたりも競馬史や木材の防腐の歴史、火災の記録などを調べればだいたい分かりそうだ。ひとつだけ、この記事の上の方に「道新」とあり、これは北海道新聞であると思われる。

調査についてはまた考えるとして…当時私はこの奥の部屋をウォークインクローゼットに改造しかけていたところで、これらを見つけて困っていた。計画では壁一面をOSB合板で埋めてしまう予定だったのだが、この貴重な資料を剥がす、もしくは封じ込めるのに強い抵抗を感じてしまったのである。それで面倒だが柱をそのまま見えるように残し、保存することにした。柱は頑丈ではあるが部分的に膨れたり歪んだりしており、また壁も前後に起伏したりしているため、合板を切って合わせていくのは素人の自分にはかなりの難工事になると思われた。しかし慣れたら慣れるもので…思ったよりいい感じにはなったかもしれない。

令和と戦前の競演

とりあえず工事を進めていたら、なんかいい感じの画になった。

「令和の合板」と「戦前の記事」が競演

ただ戦後の方の新聞記事は押入れの角や天井部にあり、保存するにはかなり特殊な工事が必要と感じられた。戦前やないし…ということで、記事を写真に撮った上で合板や角材、スタイロフォームで封じ込めることにした。ただ合板を外したところに「ここに記事があるよ」とわかるようにはしておいた。後世のほぼあり得ない工事担当者に無責任に押しつけた感じである。

再利用した襖の框(1957年はこの家が出来た年だが、襖も移築前からあったものかもしれない)、OSB合板(2022年製)、新聞(1930年代のものと思っていたが前後するかも)

町内会に入ったら歓迎会が開かれることになり焦った話

『町内会に入ったら歓迎会が開かれることになり焦った話』
(パイロット版)

今年の春に常会(町内会)というものに入ったのだが、常会長さんから驚きのお誘いがあった。『歓迎会を開きたいのですが』。町内会の歓迎会?そんなの経験したこともないし、聞いたこともない…!正直ちょっとたじろいだ。私はかねてより「移住判断の3つの要素」なるものを考えていた。どれもざっくりではあるが。
1.景観・気候・食文化
2.住居・インフラ・行政
3.人々・社会・コミュニティ
1.と2.はある程度のリサーチはできていたが、3つ目が少し心配だった。こればかりは住んでみなければ分からないところが大きい。私は長年の十勝ファンで過去に何十回も訪れていたこともあって「十勝人は非常に明るくて寛容」という(いかにもステレオタイプな)イメージを強く持っていた。これについてはそれなりに自信はあったが、しかしそれはあくまで「そういう人が多い」であって、やはり人というものはそれぞれである。「受け入れてもらえるか」「いや、そもそも受け入れる受け入れないとか現代に於いて重要視するべきでない価値基準では」などと考えてしまう。また地元商工会の人(東京出身)から「首都圏の町内会と違って横のつながりが強いかと…」という話も聞いていた。隣にどんな人が住んでるのか分からなくても不思議ではない首都圏で30年も暮らしてきた身としてはやはり少し身構えてしまう。しかしこの歓迎会を境に3つの判断要素が見事に揃うことになった。常会の人々の明るさや寛容さはもちろん、何より「互いの個に対する尊重具合」に「先進国のそれやんか」と感激し、いつしか「とりあえず生涯住みたい」と吐露するようにまでなった。そしてこの周辺の農家の郷土資料をもらって読んだりしているうちに、自分の中に120年の歴史がじわじわと流れ込んできて、素敵な切なささえ覚えた。2年半経って毎朝「ああ、ええとこにいるやん」と思う。大袈裟でなくほぼ毎朝。そしてこの家の歴史のなにかしらを受け継いでいきたいとも勝手に思うようになったのである。これが「新聞を残そう」と思った要因の一つにもなった。

ビフォーアフター

床も壁もボロボロだった件の部屋はウォークインクローゼット(と呼べるかは別として)に生まれ変わった。上記の件もあって周辺の歴史と文化に興味を持ち始めていたところで、この新聞を見つけてさらにこの家の歴史もなるべく残したいと思うようになった。襖の縁の框(かまち)を巾木に使うなど元々その部屋にあったものを積極的に再利用していった結果、壁板や床板、断熱材も含め総工費5万円ほどで完成した。北向きで湿気が多く寒かった部屋は、家中で一番カラリとして室温も安定するようになった。

ビフォーアフターはこんな感じ(床下の基礎部分はやってもらった)

初夏は朝夕は仕事、昼間はDIYで毎日汗だくになって作業していたが、いつしかい材木や廃材を見ると興奮するようになるほどになっていた。コメリパワープロが好きすぎて仕方がない。この工事の顛末「古民家の部屋DIYビフォーアフター(仮)については別途原稿を用意しています。また肝心の「新聞記事がいつのものなのかの調査(仮)も結果が出たら書きたいと思っています。

最後までご覧いただきありがとうございました。

※後注
2020年の夏、古民家を探して北十勝を走っていた。「このあたりが良さそうだ」と防風林沿いの農道に入り、この家の前を偶然通った。「すごいかわいい家!」と写真を撮った。地元の商工会の(先述の)人に写真を見せて「こういう感じの売り家ないですかね…」と尋ねた。
『あ、この家知ってます』
「え?」
『来月の取り壊す予定です』
「ええ?」
『止められるかもしれません。持ち主さんに聞いてみますか?』
「えええ?」

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