漠然としているけど必要な場合

考えさせられた。「変わる」ってどういうこと???

子どもにあれこれと身につけてもらいたいと思うこと。習慣とか。

子どもが将来に向かって生き抜きやすくなることとか。

挨拶に読書と言われれば具体的ではあるし、身につけた方がよい習慣であるとは思う。

でも、例えば、とある仕事に就いて与えられた業務を遂行する、とかいうのと比べるとそれほど具体的でもないような気がする。

強制力が働きにくいというか。

「やりなさい」と言われて、「うん」と答えが返ってきたとして、実際はやらなくなる(習慣としては身に付かない)ということが往々にして起こる。

仕事の例だとやらなければ仕事は終わらないし、下手すると仕事から外されたりもするだろうけれど、挨拶や読書しなかったからって即座に困ることはない。

子どもに限ったことではなくて、大人だって、社会だって、悪いところがあれば変わって良くなる方がいいのは明らかだ。

でもそれって私たち一人一人が変わったり、誰かや何かのことを変える、ということなのだろうか?

自分自身のことだって厳密な意味で「変える」ことなんて可能なんだろうか?

生きていれば色々と変わるのが自然だろう。

けれどもその色々ってものは何??誰も分からない。

だから「こう変わった方がよりよい」というものが社会的(同時代的)に、そして歴史的に構築され、従い、従わせようとする。

私たちってもっとこうなんというか弱い存在なんではないのか?

とあるルールに従うことも、従わせることも、弱さのなせる業ではないのか?

特に従わせる方。

いかにも強そうだし、目指されるべきもののようにとらえられがちだけど、そんなに私らって意思とか強いか?

他人にいうこときかすことができるってことは社会全体にとって利益の方が多いとは思う。特に経験に基づいて、かつ、論理的にも整合的で、実証された知識に基づいて、「こっちの方がいい」といってあげられるなら、何も問題なんてないだろう。

でも、時々刻々過ぎていく日常の中で、どれだけの人が、より普遍的な真理に基づいて行動したり、他人を導いたりできているだろうか?

普遍的な真理とか解き明かそうとすることは何も悪いことではない。

でも、そうすることが、自分自身を普遍的真理に近い存在にする(変わる)とか、他人をそちらの方向に導く(変える)ことではないだろう。そこに繋がる可能性はあっても。

繋げるためにも、私たちの克服不可能な弱さは厳密に精査されるべきではないだろうか。

避けがたい二面性

どれだけ善意をもって為した行為でも、他人に解釈されることは避けられない。

行為というのはさらに行使する意思なんてなくてもパワーの行使になっている。

全部を表象し切れないのに他人の前に自らの行為を観察可能な形で提示するということは、表象し切れなかったものの存在をあたかもないもののように扱ってしまう、ということ。

そういった”「ある/ない」を「見える/見えない」で決めるパワーの行使”が日常的に許されているのは、提示された行為は、いかように解釈してもよいことになっているからだ。理論上は。

但し、現実的には、「いかようにも」、とはいかない。

文脈を読め!という強制力が働く。

そうした強制力を前にして割と普通に採られる戦略は、「従いつつ従わない」。これを実践する方法として人々が最近見つけたのが、無言で耐えるのではなく、しゃべる。

しゃべりさえすれば、「はいはい。仰る通り。私にゃできることなんざありまへん。」と認めつつ、「従ってやってんだ。あんたらそんなにえらいなら全部お見通しなんでしょう?」とえらい人々にチャレンジすることができる。

この戦略で重要なことは、あくまでも私ら(従う方)に責任はないぜ!と言うことであって、必ずしも、自らの道徳観とか、唯一無二の経験であるとか、アイデンティティであるとかが社会的に認められることなんて目指されていない。

とはいえ、「しゃべることができる」という事実の背景には、しゃべったことを理解可能な人々が存在するので、社会一般なんて期待していないけれど、一定のコミュニティ内では、道徳的な正しさや経験やアイデンティティの唯一無二性がシェアされる。

だから人はしゃべる。

しゃべるのは特に弱者にとっては大事な息抜きになる。

ただし、大きな問題がある。

多くの人々は、ストレスのリリース、ぐらいのことは自覚していても、しゃべることが、パワーを持つ人々に利用されることも、自らがとあるグループを組織することで、当該グループに属さない人々の存在を排除する、というカタチのパワーの行使であることなど思いもしない。

「パワーを持つ人々に利用される」方は、もしも善意に解釈されるなら非常に明るい社会になる可能性があり、より多くの人が発言できることが一般に言論の自由として重要視される所以。なのだけれど、大体において「負け犬の遠吠え」扱いされ、事実上ないものとされるか、だいたいの情勢確認に使われるか、よくても弱者の真実などおかまいなしで、商売になりそうな情報だけ利用されることになる。強者も弱者も基本的にまさか自分がパワーを行使しているなんて気付かないのです。

パワーの行使に気づかないということは、しゃべることで安心できるグループ、場を確保するようなパワーの行使なんて、気づいたところで全く大したこととは思われない、ということ。

問題はしかしパワーの行使が気づかれにくい、ということにとどまらない。

そもそもしゃべるのに、論理整合性やら、実証可能性やらは厳密には検証されるはずがなく、人々は何となく聞いてくれそうな人を探してしゃべる。

さらに、厳密には論理整合性や実証可能性を検証しない、といったって、そもそも聞いてもらえなければ意味がないので、話すことの筋目ぐらいは誰でも気にする。はちゃめちゃなことばかり言い合うわけではない。なので、もしも会話が成立し続けるなら、論理整合性が全体として怪しかろうが、しゃべったことが事実として残り、かつ、確固たる意味を持つようになる。

特定であっても多数の人々の間で「これが現実」と信じられるものが確立されたなら、それはもう立派な社会的現実だ。実際人々は世界全体をイメージはできても、特定のよりリアルと感じられる範囲内で孤立していなければ、敢えてその特定の範囲を超えようなどとはしない。結果、一人一人は、いざグローバル化!とか言われればそれなりに答えられる知識を備えつつ、日常の大部分はローカルな安住の地を拠り所として、その安住の地がひょっとすると他の人々の安住の地とコンフリクトを起こすかもしれない、という注意が働きにくくなる。

つまり、人々が何となく話が通じそうな相手を探しつつしゃべる、という戦略に含まれている、話の筋目のつけ方、というのが非常に重要な役割を果たしている。

必ずしも、パワーを持つ人々にチャレンジするつもりなんてなくても、結果としてチャレンジすることになってしまう。

何故か?

それは、「私(たち)の方がよりよい」と言うために採られる手法がみんな同じだから。

真実はいつ?、誰が?、どうやって?かは様々だけれど、きっと証明されると思っている。

そう思わないではいられないのが私たちの弱さ。

真理を追究することは決して悪いことではない。

でもそれは私たちの弱さに駆動されている。

その証拠に私たちは一人一人、常に例外なく、合理的に、実証的に真理を追究したりしない。

それなのに、科学的な思考、それに基づいた行動の方がよりよいのだろうと漠然とではあれ信じるようになってきている。

だから、筋目の通し方も、その評価も、合理的、実証的な方法に頼ってしまう。

合理的、実証的方法の弱点は、どこかに普遍的な真理がなければならない、という一点にある。

何故それが弱点なのか?或は、私たちは別に普遍的な真理がどうのこうのなんて意識していないのではないか?

そう。

「普遍的な真理」なんて学者だって懐疑的。

問題は、「普遍的真理」という名前とは無関係。名前なんてどうでもよくて、「私(たち)ではない」、と言えること。

そうすることでしか気軽にしゃべったりできない。

人間は間違いなく進歩している。合理的、実証的手法のおかげで、私たちは太古の昔よりは明らかにしゃべりやすくなっている。

だから私はノスタルジックに昔のように踊ったり祭儀に勤しんでいられた時代の方がよかったとは思わない。

さらに進歩を目指したい。何故なら私たちは進歩を目指さないではいられない弱い存在だから。

いつまでも「私(たち)ではない」と言うという戦略に頼ってはいられない。

よい習慣をつけるというのは大事。

何故なら習慣とは継続的行動で形作られるから。

「私(たち)ではない」と言わないなら、「私(たち)です」と言うしかない。

けど、その「私(たち)」って何だ?

それは習慣を通してしか形作られない。

挨拶も読書も合理的思考もそれらは全部「私(たち)です」というために継続される習慣。

変わることができるか?変えることができるか?

それらは私たちがどんな習慣を身に付けられるか?次第なのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?