やさしいひとびと

もしも「やさしくする」という動詞が成り立って、皆が「それは価値が高い」ということで、競って取り組んだとしたら、世の中ってよくなるだろうか?

やさしい、ということが、あくまでも目に見える行為によってしか評価されないのだとしたら、「やさしい」というのは、多分お金で買えるようなもんなんだろう。

そもそもさ。私たちが日常生活送る中で、別に意識して言葉に変換しなかったとしても、何かを感じられる、ということは、個人個人としてだけではなく、社会の構成員として、喜ぶべきことだ。しかし、感じたことに始まって、結局目に見える形に落とし込めるか?とかその上でバリューを計測できるか?とかいうようなことにしか皆の興味が湧かないのであれば、何かを感じられる、ということは却って社会全体としては害悪にしかならない。結局差別化しておしまい。かつ、勝てた者だけがバリューを得られるという。。。

日本でいうところのやさしさが、しばしば非常に幼く感じられるのは、折角弱さを感じられても、そういった感覚をどこへ向ければよいのかがどうやら分からないらしく、右往左往して、結局分からないまんま、適当に集団で「これでええやんな?」という雰囲気を創り出してやりすごそうとする態度のため。

「自己責任」だとか、「今でしょ」とか、「絆」だとか。。。ろくに意味も考えられずに流行ったりするのはその象徴だ。(過去には「(戦争に)騙された」とかも。。超絶”他人のせい”哲学。)

結局個人個人というものは、弱さであろうがなんであろうが、何かを一手に引き受けられるような存在ではないのだ。

選択肢として、「とりあえず、空想でしかないんだけれども、という前提で、ちょっと自分で全部おっかぶってみる」ということを自覚的にできる人がほとんど存在しない。

個々人の使命というか、できること、を端っから限定するものだから、描けるシナリオもバラエティに乏しくなる。

まあいわゆる先進国といわれる地域では程度の差こそあれ益々強化されつつある傾向なんだけれども。。。他も日本を追随しているからって、、、安心材料にはならない。。。だって明らかに生まれた時点で弱かったら生きにくいどころか、、カスのように注意も向けられないで捨て去られてしまうんだから。。。

発想を切り替えれば、そもそも「弱っちいもの」「はかなげなもの」にも注意が向いてしまう、という日本文化独特の性質は、現にシナリオのバラエティが急速に減少している世の中にとって、プラスの方向に貢献できるのではないか?と考えている。

全てを個人に負わせることが実際不可能だと骨身に沁みているのだから、それに適った行動をとればいい。

より具体的には、「忘れて行ってしまうことが悲しく切ない」と敢えて表明することで、決して請け負いきれない諸責任について、「そういうものがどうしても存在する」と共同体として記憶にとどめること。

Forgetting for rememberingと私は呼ぶ。

そんな芸当、究極の弱々しさを自然と体現できる日本人でなきゃ、やったところで所詮ウソっぽい。

ホンモノは生き残るし、どこででも通用する。

証明するだけじゃなくて、実際少しでも多くの人にとって生きやすい世の中を追究するために、その一手法として使えるようにしたい。

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