敵は超巨大だ
さっさと何か書いた方がいいのは山々なのだけれど、計画も必要と思う。それぐらい書きたいと思うことはバカデカい。
人間が道徳心を失った地点まで戻らなければならない。
しかも、私が21世紀の現在使える言葉は、相当西洋文明に浸食を受けている。
つまり、極東の辺鄙な島国で生まれたのに、西洋オリジンの文化が、土地特有の翻訳・解釈も経ながらだけれど、生活の一部として受け入れられているという状況。
それは日本だけの話ではなくて、程度の差こそあれ、世界中どこででも起きていること。
それだけローカルの風習や文化の違いに関わらず、西洋オリジンとされるやり方・考え方は、広く人間にとっては受け入れられやすい、ということだろう。
エンデミックという言葉があるけれど、道徳心を失ったことと無関係ではない、どころか、関係オオアリと思っているので、西洋オリジンの文化・文明というのは疫病的と言ってもいいと私は思っている。
ほとんど誰にも真正の悪意はないとも考えていて、それだけに扱いが難しい。
道徳心を失ったとは言うけれど、人間は生まれ持っての道徳的な生き物だから。
矛盾?
道徳的な生き物であるということが、道徳心を保持しようとすることを保証しない。
そういうこと。
「本気で『よかれ』と思ってやっていることが、めっちゃ害悪を及ぼしていることに全く気付いていない」と言った方が分かりやすいかもしれない。
また、西洋オリジンとは言うけれど、発祥の地は中近東。チグリス・ユーフラテス川流域。エジプト辺りまで含まれる。
まあ現状広くグローバルに受け入れられているわけだから、発祥の地といったって、別にそこの人々にだけ責任を押し付けようなんてことでは全くない。
いわば人類全体のこと。
なぜ道徳って意識されづらいのか?
その他のこと、権力・地位・名声、物的・金銭的利益、合理性・価値中立性などなどに代弁させられやすい、或は、それらよりも下位に位置付けられやすいのか?
一つ間違いないのは、道徳というものはほぼ定義不可能なもの、ということ。
定義できないのに「道徳」という言葉があるのは矛盾な気もするけれど、記号、特に言葉なんてそんなもんだ。何かと一対一で対応するだけでいいなら記号なんて要らない。
記号を(結果的に使っていることになっているのとは違って)「使える」というのは”予感”の始まり。
条件反射的にとりあえず飛び立つのではなくて、「まだ待てるかも?」と感じて、本当に待ってみる感じ。
(多分都会の)カラスはただ石を投げるマネだけだと逃げないのに、石を拾う動作を入れてから投げマネをすると逃げる。
彼らは記号を”使う”ことができる。
つまり道徳心の欠片ぐらいはある。
逃げなくても「いい」と、逃げた方が「いい」の違いが分かる。
逃げないと「ダメ」と、逃げたら安全だけどそこで逃げちゃあ「ダメ」の違いも。
オーバーな擬人化?
そうかもしれない。
でも記号って双方向のプロセスだからさ。
勝手な解釈っつったってまんざら大外れでないこともある。
いや。
訊いて答えてくれたところでウソってこともある。
結局信じるかどうか。
そんなことには煩わされないのが一番楽。
煩わされる面白さってのがないわけじゃないけれどね。人間は多分今でもこの手の面白さが好き。
記号を”使って”のやり取りというのは因果なもんだ。。。
相互の理解の正確さを求める場合も多いけれど、一対一のようにきっちりかっきりだと面白くない、、、とかね。
そうした面白さも含めて、じゃないと、ただ道徳心を失ったことだけ指摘しても、あんまり面白くないだろうなー。
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