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気付き

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哲学ってどうやったら生まれてくるのだろうか?

気付かないとどうしようもない。

当たり前の日常に含まれている意味に。

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私はこれまで主にヨーロッパとアフリカの人たちと関わり合いを持つことができた。当たり前かもしれないけれど、日本で生まれ育った私とは色々と違うところがある。違う一方で、やっぱり皆人間なのでは?という思いは消えない。これまた言い古されてクタクタになった言葉だけれど、違いは尊重しつつ平和に共存共栄できたら、と思う。

マクロの社会経済からの視点では、ヨーロッパとアフリカの間には格差がある。短く見積もっても前世紀の始まる頃から、前者は後者を搾取し続けている。その要因としては、産業革命以降の急速な科学技術の発達。そのスタート時期の違い、進捗過程・速度の違いなどが挙げられる。ヨーロッパは早くにスタートして、常にアフリカの先を行っている。ならば科学技術と生産体制、それらをマネジメントする諸組織、諸制度を整えればキャッチアップできそう。でも中々格差が縮まったようには見えない。

科学技術も、生産体制も、諸制度、諸組織も動かし活用するのは人間なのだから、人材育成が要となる。人材育成には時間がかかる。キャッチアップにも時間を要するに違いない。ごくごくありきたりの推論。でも人間が変わらないとどうにもならないというのは否定しがたいポイントと思う。

私は日本人だからなのか、変わらないとならないのはみんなだと思う。お互い様の思想?

人を育てるというのは、白紙に必要情報を印字していくようには進まない。誰がどう教えるのか?によって教えられる方の変化の仕方も随分と違ってくる。自動車整備のように教えるべき技術がはっきりしていたとしても、教える者、教わる者のバックグランドが違えば、指導の成果も違うものだ。試行錯誤して、状況に応じて柔軟に教え方を変えるということも求められる。やはり教える側の責任というものは相当重い。

私は技術者でも先生でもないので、これという教えるべきものを持っていない。だからこそ明確に教科として確立していない方面の知識でもって、人間がよりよい方向に変わっていけるように。そういう貢献しかできない。とっても漠然としている。貢献なんてできるのか?「できる」と思うのがそもそもおこがましいのかもしれない。

「貢献」なんて大仰なことではなくても、それでも、搾取され続ける方の人々が少なからずいるのなら、搾取される度合いが少しでも少なくなっていって欲しいと思う。これはもう理屈を超えたところにある直観的な好みのようなものだ。そういう「直観的な好み」でこうしてグダグダと物を言っていられるというのは、これまた直観的に贅沢と感じる。

そう。なかなか好みで発言ってできないというか、できたとしてもポツポツ(アドホック)になるのよね。諸々恵まれてないと。noteにつらつら書き続けられるなんてのは相当恵まれている。

そういうわけで、自分って何に恵まれているんだろうか?ということを考えた。色々と個人レベルではあるのだけれど、日本人って何に恵まれているだろうか?ということ。特に恵まれていないとされるアフリカとの対比で。かつ、人間(の成育)に関して。

私が生まれた日本は既に先進国の仲間入りをしていた。どんどんと成長もし、物質的には非常に安定した生活を送ることができた。教育も十分に受けさせてもらった。

アフリカにだって学校はあるし、生活が安定しさえすれば人間もみるみる先進国の人間との格差を縮めることができるはず。

こういう推論は、書いているうちからそう思えなくて困るぐらい、問題だ。

そもそもの話、人間にはそれほど格差はない。経済的格差やそれからくる様々な社会問題によって健全な成育が妨げられるというケースは沢山あるとしても。たまにいる超天才とかいう個人レベルの話ではなくて、とある塊りとしての特徴で、ヨーロッパ由来の人間にはスーパーマンやウルトラマンがあちこちにバラバラと存在していて、アフリカ由来の人間にはいないなんて話は聞いたことがない。

もっと本質的な面では、アフリカの人たちは、別に先進国の人たちのようになる必要はないし、似たようなものになったとしたって、それを指して格差が是正されたと言うのは先進国側の傲慢だろう。「優位」とは言わずとも違いがあるならば、彼我の違いを厳密に洗い出すべきだ。ある程度の塊りとして違いと呼べるものは一体何なのか?

私が行き着いた答えは「積み重ね」。

ここまで積み重ねられたものがかなり違う。

より具体的に言えばそれは人命。

赤ん坊は含まれない。7、8歳ぐらいまではうまく育った。そういう人々の命。

それをどれぐらい人為的に殺してきたか。

自然災害とかではない。

しかも、塊りの内部でそれは起こっていなければならない。例えばインド人がインド人を、中国人が中国人を、日本人が日本人を、、、というように。白人が黒人を、、、というようなものはカウントしない。例で使った「○○人」は全てカテゴリーが非常にいい加減だけれども、条件としては同じ言語を分け合っている者同士。「言語を分け合う」というのもまだまだ緩い定義ではあるけれども、ともかく直観的なセンチメントが反射的に共有できてしまう者同士を思い描いている。

人為的に殺された人命。「恵まれている」とは表現し難い。けれども前世紀末頃から見られるアジア諸国のキャッチアップを見ても、その膨大な積み重ねは看過できないインパクトがあると思う。

私たち人間の生活というものは、数え切れない命の上に築かれている。そしてそこには残念ながら数の論理が働いている。最も残念なのは、たくさんたくさん死ななければ「数知れない命の上に築かれている」という気付きはどうやら得られないらしいところ。一例、二例ではダメなのだ。個人レベルで気付く人がたまにいたとしてもうねりは生じない。

先進国とされている地域で生まれ育った人々の間には、既にその気付きがある。ヨーロッパ由来の人々の間では、気付きがあまりに早い時期に訪れたせいか、気付きの効果がずいぶん昔に無力化されてしまっているように見える。私が生まれ育った日本などは、ヨーロッパ由来の人々ほどではないけれども、気付きの効果はかなり薄まっている。このように折角必要な気付きではあっても集団として見るとほとんど目立たなくなってしまっている。けれどもそれがあるからこそ積み重なっていくものがある。それを指して私は哲学又は文学と呼ぶ。

ないとダメなんです。目立たない存在だけど。

何故か?

現実を見れば分かるように、そして、失われた人命への気付きが「目立たない」と言ったように、人間ってのはむちゃくちゃ凶暴だ。群衆として。この凶暴な群衆に対抗するためには「哲学(又は文学)」がなきゃどうにもならない。一方的に嬲り殺されるのみ。

過去の奴隷制や現在の搾取を見ると分かるとおり、自分と全く異なる種類の生き物を殺しても、人間というのはあまり痛みを感じないらしい。勿論これは個人レベルでは様々。草木が踏みにじられているのを見るだけで怒りが湧き涙を流す人もいるだろうし、家畜やペットの死が親類たちのそれとほとんど変わらないという人もいるだろう。ただ総体として人間は殺すし、それを延々継続できるぐらいが平均点といったところ。全く一切殺さないなんてのは残念ながら近い将来には実現され得ない生活モードだ。

これは人間を非難しているわけではない。沢山殺すようになるのも、人間がよりよく生きようとする結果。それを非難しても止められるわけがない。まずは個々が普通によく生きようとするぐらいでは人間全体にまつわる問題はどうにもならないんだということを思い知らなければならない。これが非常に難しい。安易になんてのは論外として、ちょこっと気持ちを入れ替えてなんとかなるという次元のお話ではないのだ。

個々の生き方として「分業」イメージじゃあ何も変わらない。「哲学や文学はあの人たちに任せとけばええ。」そこに留まるなら何も変わらない。

社会は分業でできているとしても、人間は割り当てられた役割だけを演じるわけじゃないなんてことはみんなが知っている。お仕事上の適/不適のみならず、ありきたりの出来事について何をどう感じるか?どうリアクションするか?だって、癖や傾向は多かれ少なかれあるにせよ、ワンパターンには定まらない。毎日たくさんの命を奪い続けているとしても、全く痛みを感じていないとは限らない。

勝手でシンプルな解釈で面倒を外へ放り出し続けていては、社会は歪んでいくばかり。「私は私に割り当てられた役目を責任もって果たしてます。あとは他の誰かさんの責任でしょ?」と全員といわずとも多くの人が考えていて、人間の世の中全体が良い方向に変わるとは思えない。

私たち人間がそんな簡単に整うわけないじゃん。

それなのに「こっちが人間」「あっちは非人間」「こっちゃOK」「あっちゃどーしよーもない」なんて認識しちゃっててそれに気付かないってのは相当歪んでしまっている証拠。

折角よく生きようと思っているんだから、続けるしかないよね。ゴールなんてないし、よって何%まで行ってるから合格とかもない。

グローバリゼーションと言われているけれど、失われていく命に痛みを感じる感覚はグローバル化していると言えるのだろうか?進んでいるとされるヨーロッパの人々にしたって、ローカルな感覚を超越して世界各国・地域により広く恩寵をもたらすことが少しはできるようになったといえるのだろうか?いわんや私たち日本人をや。

どんな国際人だってそれぞれ生まれ育ったローカルがある。そこでの進歩がお留守で見るべきものもないのに、訪れるそこここで異なるそれぞれのローカルを尊重なんてできるんだろうか?ゼッタイ無理だとは言わないけれど、やる気があるというのならお得意の行動で示して欲しいものだ(ウソ)。

気候変動に感染症に。かまける問題には事欠かない。行動がお得意な面々は、相も変わらず自分たちの外にある問題群に立ち向かっているスタンスで、ろくな振り返りもせず前向きに進んでいますと主張し続けている。個人個人にできることなんて限られているんだから、まずはどれぐらい微力なのかを知ろうとしなきゃね。それは負けを認めることにはならない。よりよく生きようとしていると言い張るのなら当然の責務。

現代になって気付きのバリエーションが益々貧困になっている。過去の記憶や未来への意志だけではお話にならない。現に生きながら絶えず個々が纏っているモノ。気付いて活用すべき類のリソースではなくて、そもそもこうして生を与えてくれ日々を生きることを可能ならしめているモノ。自己を振り返り、関係性から気付きを得ていると言うのなら、見ず知らずでも自己に繋がる人々の命に対してだって責任を感じなければウソだろう。

みんなが変わらないとなんともならない。

知識の民主化。

そこへ向かうためにも、まず提唱したいのは、知識やそれを得る為の学びという行動の見方・捉え方の変更。「知識を得る」と言ってもやっぱり知識はモノじゃない。知識とは、私たち人間がこの世にこうして存在しているその仕方。意識高かろうが全く皆無だろうが、生きている以上それぞれの存在の仕方で社会に影響を及ぼしている。学ぶ意識があろうがなかろうが私たちは存在の仕方を日夜維持・編集・更新している。よりよく生きるために。より意識的に行う学び(いわゆる勉学)においては、常に流れ続けている「知るプロセス」をこそ第一に意識するべきだろう。

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