『地球幼年期の終わり』を読んだ

アーサー・クラーク

宗教から始まり、人間の好奇心(中々知らずには済まされない気持ち)、芸術と科学、エゴ、そして超能力とマインド(心性)。。。

色々と盛りだくさんでもうちょっと読み直してみたい気分。

物語りの筋としては、最後がマインド(心性)を超えるもの、となっているのが個人的にはちょっと残念。なぜかというと、マインドってただよく解らないだけではなくて、実は別にそんなものないんじゃないか?と思っているから。

信仰、科学的な理性(合理的思考)、芸術だけではカバーしきれないものがあって、それで超能力とか超常現象も取り入れて、多分、読者にそのカバーしきれないものについて様々想像してもらいたい、という意図があるのだと思うけれど、「マインドを超えるもの」と言ってしまうと、細かいけれど、「マインド」があたかも既存のように扱われてしまう。

様々想像を巡らせる上で大切だと私が考えているものは、個々人が絶えず感じているであろう様々な有名無名の感覚。特に感覚なんて名前のつけられないものが圧倒的に多いはずで、そういうものにどう向き合うのか?ということ。

名前がないと考え続けるのも難しくなるけれど、名前があると想像に限界が設定されてしまう。

理想的には、じっと、「これかな?」というものが、自分自身の中から湧き出てくるのを待てればいいんだけれど、忙しい世の中ではそうもいかない。忙しくなくとも名前で呼ばないでいるとそのうち忘れてしまうってこともあるし。。。

さらには、あまり自分の感覚感覚、、、って思い込みすぎると、名前のつけられないものへの思い入れが強くなりすぎてしまうっていう弊害もある。

それでもできればじっと迷い続けられる方がいいのではないか?と私は今は考えている。

ポイントは、迷っていたっていなくたって、私の周りには私以外の人間がいる、ということ。よって、なんやかやと印象を持たれるだろうし、自分だって自分以外の人間について様々感じたり考えたりする。

そういう避けがたい現実と、内面で様々巻き起こる感覚と。。。

なんとかかんとか折り合いつけているんだろうなあ。

そういう想像が盛んになるといいと感じている。(祈り)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?