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「労働する思索家でないとダメ」

大学1〜2年生の時に月一で通っていた予備校時代の英語の先生が開いていた研究会。そこでは月に1冊、夏目漱石の作品が課題図書として指定されて、それを読んで来て参加者は感想をそれぞれ言って、先生からは当時の時代背景やその当時の夏目漱石についての話があったりする場でした。

それまであまり本を読む習慣がなかったのですが、その研究会になんとしてでも参加したいと思っていて、たとえぎりぎりになっても最後まで読んでいくということに取り組みました。月に1冊の本を読むということを通して、いつの間にか本を読むことが好きになっていました。

その研究会は、夏目漱石を読む場が第一部で、第二部としてドストエフスキイと聖書の関わりというテーマで、ドストエフスキイの『罪と罰」や聖書のヨハネの黙示録、作品の中で描かれているシーンの中に織り込まれている聖書のシーンについて思索を深めていく場でした。

当時の僕は、第二部の場で話されていることが、よくわからないながらも、なんとなく感じるものがありました。大学で取り組み始めていた環境問題が、その場で話されている19世紀のロンドンやパリ、そしてロシアで起きていることとのつながりをどこかで感じ取っていました。

ある時のその研究会での、「労働する思索家でないとダメ」という先生の言葉が今でも残っています。当日の自分は、働きながらも考え続けること。思考を停止しないで、社会に出ても考え続けることが大事であるというふうに受け取っていました。

実際、大学卒業後は、会社で働こうと思って就活をして、大学4年の10月ごろにようやく一社決まったのですが、そこに入社してしばらくは「会社になんて染まらないぞ」とかなり意気込んで、警戒心を持っていました。「労働する思索家でないとダメ」という言葉が常にあったように思います。

今にして思うと、「労働する思索家でないとダメ」という言葉は、思考することと、行動することの両方が必要だと言うことだなと思っています。ただ思考しているだけでも、ただ行動しているだけでもなく、両方をやっていくこと。自分自身を固定化しないで、更新していくこと。

バランスが取れて安定していると、つい居心地がよくキープしようとしたり、楽だからとそのままを維持しようとする自分がいますが、変化を恐れずに自分自身を更新していく、アップデートしていくことが必要だと思います。動きながらも考え続ける。考えながらも動き続ける。

最近は、「労働する思索家でないとダメ」という言葉そのものは意識することは減っていますが、ふとした時に思い出す、自分の中では生き続けている言葉の一つです。

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