見出し画像

「自分に優しくする」というメッセージは「楽してうまくやりたい」の免罪符になりうるか

「自分に優しくしてみよう」というメッセージを発信しています。

辛い時、自分の声を聞いてあげよう。しんどい時は休む選択をしてみよう。嫌だと思ったら、断っていい。辛い人間関係からは距離を置いていい。力を抜く体験をしてみよう。

そんな風に、自分も守るための選択をしようというメッセージです。これを発信するようになった経緯は、相談を通して沢山の人が「自分に優しくできない」ということに苦しんでいると気づいたからです。

周りに気を使いすぎて有給休暇を使えない人や、苦手なことを根性論だけでやろうとしすぎて燃え尽きてしまった人や、休むと「怠けている」と思われるんじゃないか…と不安な人。そんな人たちに向けてnoteを書いたり話したりしてきました。

このメッセージを発信すると、よく言われることがあります。

「自分に優しく…を都合よく解釈して、まだ何も頑張っていないのにサボっていいと勘違いする人がいるんじゃないか?」

「このメッセージが『楽してうまくやりたい人』の、免罪符になってしまうんじゃないか?」

つまり、このメッセージは頑張っている人にとっては必要だけど、「まだ頑張っていない人」に伝えると、「そっか頑張らなくていいのか!自分に優しくしよう!」と都合よく解釈されてしまうのでは…ということ。

これがなんとも難しいです。私にとって「まだ頑張っていない人」はどんな人だかわからないし(私が判断することではないし)、楽してうまくやれたら最高です。ただ、これの意見を私に伝えてくれる人たちは、とても頑張っている人たちだから難しいです。自分に優しくすることが誰かの迷惑になることの前提として受け取られてしまうのは辛いですね。

たしかに、集団としてこのメッセージを捉えられると「自分を大切にする=休む」「休む人がいる=カバーする人がいる」「カバーする人が大変な目にあう」という構図ができあがるのも理解できます。私たちは集団で生きているから。


だけども。私は思うのです。


その人がその人の持つ力を冷静に見極めて、今は頑張る時なのか、今は遊ぶ時なのか、今は休む時なのか…という状況を判断するためには、常に「自分に優しくする」という視点で物事を見ることが必要だと。

外圧に負けない冷静な判断が必要なのです。「誰かが怒るから」「誰かが困るから」「私の価値がなくなるから」という理由で、私たちは頑張り続けることができない。それは、その一瞬を頑張ることができたとしても、長くは続けられない。

自分が誰かをカバーする側の人だったとしても、そこに冷静な視点が必要になります。誰かが死にそうになりながらカバーしなければ回らない集団は、結局は回らないのです。カバーするのかしないのか。そこにも「自分に優しくする」という視点が、冷静な判断につながると思っています。

誰かに「まだ頑張っていない人」と周りから判断される人がいたとして。たとえば、仕事や勉強に本気になれなくて、うまく打ち込めていない人がいたとして。周りに「お前はまだ本気出していない!」とか言われる人がいたとして。(誰かの頑張りや本気については、周りが判断することじゃないんだけど)

その人たちも、「自分に優しくする」ことが必要です。冷静に、自分が何を求めていて、何をして何を手放すのか、見極める力が必要です。それをせずに周りから求められる努力をしようとしても、努力できないのは当然だと思うのです。

私たちは全員。いかなる人も。冷静な視点が必要です。

そんなことを考えながら、私は「自分に優しくすること」を発信しています。もしかしたら、誤解をうまないもっといい発信方法があるのかもしれません。でも、今は「優しく」という言葉を使う必要があると思って使っています。

まだまだこの言語化は発展途上なので、来年も引き続き伝わる言葉を探していきたいと思うのでした。

____________________
2023年のテーマは洒洒落落。物事にとらわれず、さっぱりと生きたい。そんなハマダのこだわりレスな記事はこちらに収めます。

ハマダユイ
ソーシャルワーカー11年目。大学教員をやりながら、相談室バオバブで個別相談を受けている。精神疾患にまつわる悩み事、家族のこと、人間関係のこと、仕事のこと…。いろんな人と一緒に作戦会議を開く毎日。

バオバブはこちら。

この記事が参加している募集

熟成下書き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?