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わたしは学ばなくてはならない

 今ここにいて、こうしている意味を。

 もう二度と起き上がることができる日はこないのではないかと思えるような長い恐れを、

 薬を飲み続けて、廃人になってしまうのではないかという暗い穴を、

 これまで目をかけてくれていた人たちが、そっと見限って、去ってしまう未来を。


 自分を強くしていた虚勢を自ら取り払ったとき、守るすべを失って、押し込まれていた不安が吹き出してくるのを、ただ見ているしかなかった。

 そうなるとわかっていたから押し込めてきた。
 ギリギリでもいい、ヒトの形を保っていたかった。

 

 忘れるな、今のわたしはそこから生まれたのだ。

 そちら側に来たのではなく、そちら側だったのだ。
 そしてほんとうのところは、彼方も此方もないのだと。
 それを心の底から学んだとき、きっとわたしはまた世に立ち帰ることが出来る気がする。


 それは、かつてと同じところに返り咲くことではない。
 この「いま」をくぐって、新しい私を探し当てることだ。
 もっと深く根を張り枝をのばし、人をやすませる、そういう強さのなかに生きる。
 シェアを奪い合う世界線での強さ、人を押しのける強さはもう要らない。そういう人に見限られるのを恐れないで、信じる優しさでもって人の助けになるような、そういう強さ。
 それが持てる未来のために。
 わたしはいま、学ばなければならない。

 これをどん底だなんて思わない。
 何回も拾った、拾われた命。そのことに意味があるとしたら、それは、既存の社会的成功や、幸せの型に自分の体を嵌め込むことがそののゴールではないはずだ。
 「人並みに」という切望が、正しい羅針盤の読み方ではなかったはずだ。

 動けない毎日の中に、心の動きがたくさんある。……動けないから、なかなかこうして書きに来られないことも多いけど。
 書けることと書けないことのなかに、本当の自分がいつもいる。
 だからせめて、そこにまっすぐ立つ。ひとをジャッジする視線など、遠い遠い外側の出来事。


 真っ直ぐに立って、すべてを受け止め、その痛みも恐怖も嘲りも味わって、わたしは学ぶ。
 痛みを味わってずたずたになってもなお、生きる力ははるかに超えて強く美しい。その学びのなかにあるし、これまでもずっとそれを学んできたのだ。
 気づくまでに遠回りをしたけれど、その回り道で見た風景さえひとつの無駄もなかった。


 今日私はここでね、言い訳をしています。
 期待されたようなことはなんにも出来ていないかもしれないけど、その裸の私が居ていいんだよね? 私には言葉をはなつ指も歌う口もある、その資格をだれも奪うまい。

 

 大丈夫だわたしは、生きて、より望ましい強さを身につけて進んでいける。 

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