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【日記】これはその日が晴れていたのかそれとも曇りだったのか雨だったのかあるいはそれ以外の何かだったのかわからないが書いた人の内面がよく表現され詩的な部分もあるごく一部に過ぎないたとえ話


もやしの話

人生が変わる瞬間がある。特別なことではない。

いつもと同じ日常に、突如として現れる。

運命は、イレギュラーだ。

だから予測することは不可能で、その現象に備えて行動することができない。

ただ、受け入れるしかない。

もやしのペペロンチーノを作った。オリーブオイルにニンニクと唐辛子を入れ熱し、そのオイルでもやしを炒める。それで出来上がり。

僕は自宅ギャンブラーである。これは、お金が発生する賭け事を意味するものではない。自宅において、最悪の結果が予想できても、それを阻止することなくどちらに転ぶか身を任せる、それが自宅ギャンブラーだ。例の一つに、不安定な場所に物を置く、というのがある。

もやしのペペロンチーノは、宅飲み用のおつまみのひとつ。メイン料理が完成したらちょこっと温めてから盛り付けよう。温めるのは電子レンジではなく、やはり火がいい。

もやしが入ったフライパンは、シンクのふちに置いておいた。平均台の上に乗っているような状態だ。

自宅ギャンブラーにとって、勝ち、は存在しない。ただ負けるか負けないか。なぜそんなことをするのか?と聞かれても、僕にもわからない。何も考えてないから。

理由のない行動や思考は存在しない。ただ漠然とした衝動が僕の背中を突くのだ。

僕の体に引っかかり、手前に傾くフライパン。もやしが宙に浮いて床を汚した。その瞬間僕は「何してんねん!」とひとり言を言う。「なんでだよ!」とも言う。(シンクのふちに置いたからだと分かっていてもその現象を呪うのだ)

3秒ルール。

落ちたもやしを急いで拾う。床はぬるぬるになっている。拭けばいい、問題ない。この一連の流れは、自宅ギャンブラーにとって、よくある日常である。

おでこから、もやしが落ちてきた。飛んだもやしがいつの間にかおでこについて、下を向いた拍子に落ちてきたのだ。

きっと人はこうやって壊れていくのだろうと思った。敗北の積み重ねが少しずつ人を狂わせていくのかもしれないなと思った。

一体僕は何に負けたのだ。もやしのペペロンチーノか。それとも、己の無謀な行動か。突如として、僕の心は悔しさを叫ぶ。相手のわからない敗北が、僕の体を震わす。同時に前向きな意思持った。変わらなきゃ。

人生が変わる瞬間がある。特別なことではない。いつもと同じ日常に、突如として現れる。運命はイレギュラーだ。だから予測することは不可能で、その現象に備えて行動することができない。ただ、受け入れるしかない。そこからの未来を変えるのは自分自身だ。

とりあえず部屋を大掃除して、要らないものを捨てた。これから一生、綺麗な部屋を保ち続けよう。


ウィッグの話

東京方面に行くにつれて、個性が何なのか考えさせられる割合が増えていく。

僕の持論、多分人間の本質に個性なんてものはない。個性があるような言動や行動を取っているから個性があるように見えるだけであって、本質的には誰もが凡庸な人間なのだ。

でもそうやってみなが「自分はこれだ」と信じこんでいるから「個性」とか「自分らしさ」というものが生まれて、そして、人は悩むのだろう。

「個性」を大事にするため、自己主張を目立たせることが目的になってしまうと、正体不明の怪物みたいな姿をした「自己中心的な人間」が出来上がる。

世界という巨大な物語に出演したいという願望は理解できるのだけれども、それは「個性的なキャラクターを演じることに必死な役者」でしかないのだ。

僕自身もそうなのかもしれない。

そしてそんな僕自身も含めてこの世界のあらゆる人は基本的に「脇役」に過ぎないのだが、しかし自分が「主役」であるかのように振る舞うことが普通になっている。

しかしこれはすごく自然なことで、何故なら世界というものはそのように存在しているし、そうであることによってしか、僕たちは世界にいられないのである。

と、ここまでつらつら述べてきたが、話したいことは一つだけ。池袋で、水色のウィッグをネックレスにしてる人がいた。すげぇ。(憧れは一切なく、むしろその逆のみ)


海パンの話

運転免許更新のお知らせ、が届いた。僕は優良ドライバーなので、更新できる会場の選択肢が多い。神田の運転免許センターを選択した。

東京都では今年から免許更新が予約制となった。人生に余裕はないが時間に余裕がある僕は、平日の10時半で予約した。

何事もなく無事に更新を終え、神田駅に戻る道の途中、横断歩道の先に、水着姿のおじさんがいた。

「うわあ」という感じだ。

しかも、V。Vなのだ。(三角形の、ブーメランパンツと言えば分かりやすいだろうか)

きっとこの人は、人生の中でいくつもの敗北を味わい、徐々に「個性」に助けを求め、最終的にそのような水着を手に入れたのだ。そう考えるとちょっとだけかわいそうだと思ったりもするのだが、それでもやはり、社会において認められるべきファッションではない。

ここはコレクションの舞台ではないのだから。

歩行者信号が青になり、人々が歩き出す。おじさんも。

秀でた(飛び出た)人でも信号は守るんだな、そんなことを思って僕も歩き出す。

すれ違ったおじさんは海パンを履いていなかった。脱いで全裸になったわけではない。

海パン姿のおじさんは、僕の見間違いが作り出した虚であった。

おじさんが着ていたのは、ベージュのポロシャツにベージュのズボン、腰には黒のポーチをぶら下げていた。

「まぎらわしい恰好すんな」と、心の中で(罪なき)おじさんにツッコんだ。

人と言うのは実に自己中心的な生き物である。


炭酸の話

炭酸のペットボトルを開けた時に発生し飛んでくるしぶきはまるで斬撃のようでこれが“本物”だったら僕の首は斬れていたといつも思ってはひやりとする。いや、ひんやりとする。「やかましいわ」


男子の話

たとえ定期内であったとしても、一駅なら歩くことがある。

歩くことが特段好きなわけではないが、他人を避けながら改札を通る気疲れよりはずっとよい。

それに、黙々と一人になれる時間というのも時には必要だ。

高円寺駅前には居酒屋やファーストフード店が並び賑わっている。人間で溢れかえり、夜に向けて熱を増していく。彼らの生み出す熱は、これから訪れる夜を心待ちにしているようにも見え、あるいは一日の終わりを嘆いているようにも見える。

どちらにせよ、騒がしく、そしてどこか輝かしい。

彼らの多くはこれから、思い思いに羽を伸ばし、群れの中での役割を確立し、お決まりの会話で酒に飲まれて、楽しい時間を過ごすのだろう。

僕はそういった人たちが創る、(猥雑な)人間味とでも言うべきものが垣間見える雰囲気が存外嫌いではない。

夏の商業施設でまれに見るドライミストを浴びるかのように、彼らの間を僕は歩いていく。小さな個人商店やスナックの看板が立ち並ぶ通りを歩く。

活気のある通りから遠ざかるにつれて、人影は少なくなる。高架下に入ると、そこからはひとりの時間。

騒がしさは遠のき、嘘のように静かな別の世界へと変わって行く。この世界(通り)を歩く者だけが享受できる静謐な空間は、それぞれは排他的であるものの、ある種平等だ。

自分だけの、心地よくも孤独な世界に浸れる贅沢は、高架下でしか味わうことができない。(そんなことはない)

次の駅が近づくにつれ、孤独の世界は、喧騒と光の世界へ変わる。

道の先に、どうも騒がしい人の壁ができている。男子高校生の集団だ。8人が固まって歩いている。集団でいる人間はなぜあんなにも楽しそうなのか。

僕は特に邪魔だとかは思わず、嫌悪も抱かない。彼らの送っている青春はきっと僕とは違うものなのだ。ただそれだけのことだと思う。

男子高校生らしく、リュックにはマスコットが付いている。その中の一人はクロミちゃんとピグレットを揺らせている。

果たしてクロミちゃんとピグレットは、彼の生活に彩りを与えてくれるのだろうか。(男子高校生がリュックに可愛いマスコットを付ける理由は、単にそのキャラのファンという事ではなく、可愛い物をつけて女子の気を惹きたいがために付けているのだ。それがクロミちゃんともあれば、その魂胆は漏れ出て見える。網に引っかかった女子が「クロミちゃん好きなの?」と聞いたとしよう。彼から出てくる答えはせいぜい「いやまあ、可愛いっしょ」くらいなものだ。話が広がるほどの知識は持ち合わせておらず、その、恥ずかしさを隠した気障っぽさの、何たる可愛らしいことか)

青春の塊をよけて歩く。僕のリュックでバッドばつ丸の立体キーホルダーが揺れている。なぜ付けているのか、それは「いやまあ…可愛いから?」。


大飲みの話

自販機の前で缶ジュースを飲むスーツの男。

体型は至って、普通。

年齢は三十代前半と言ったところだろうか。

髪はやや長めで少しだけパーマが入っているようだが、それが何かを物語る特徴にはならないだろう。

自販機の周りには、誰かが放置していった空のペットボトルや空き缶が転がっている。

…この男の人がその場でめちゃくちゃ何本も飲んだ跡のようにも見えて面白かった。


笑顔の話

帰り道に、小さな珈琲屋がある。6畳ほどの広さ。

通るたびに、いい匂いがする。珈琲の香ばしい匂いに誘われるがまま、その珈琲屋の扉を開けそうになる。しかしその度に思いとどまる。

小さなお店ほど交流が深い。

僕が珈琲をひと口飲む間、きっと、店主は僕の視界から一歩も離れることなく、きっと、僕は気を遣っても遣わなくても「美味しい」と一声漏らし、きっと、それを合図として会話が始まるのだ。飲み終えると「また来ます」と僕は言い、店を離れる。きっとそう。

躊躇している理由は、この珈琲屋が帰り道に存在しているからだ。一度入ってしまえば、この小さな珈琲屋と僕は顔見知りだ。僕はそれを重荷に思うだろう。

僕の性格からして、用が無くても中を覗くくらいのモーションは、毎度毎度する事になるだろう。例えるなら、美容院で偶然遭遇した担任の教師と隣同士に座らされるようなものだ。僕はそうなった時に、眠ったふりなどできず、「坊主にしないんすか?」などとおちゃらけてしまうだろう。

いつも通り、同じ道で帰る。小さな珈琲屋のある通りを歩いていると、その店からお客さんと、店主と思しき人が出てくるのが見えた。

「ありがとうございました」とお辞儀をする店主と、去りゆくお客さん。

お客さんの顔は僕からよく見える。とても笑顔だ。 その去りゆく人は、僕の横を通りすぎ視界の端からいなくなるまで、ずっと笑顔だった。

盗み見る趣味はないが、さりげなく人の表情を見るのが僕の癖だ。

居酒屋から出てくる人の表情(食った食った満足満足の表情の人)、交遊後の解散時の友人に背中を向けた瞬間の表情(突然スンと無表情になる人がいる。きっと自分の野望の為に仕方なく付き合っている友なのだろう)、美容院から出てくる人、サーティーワンアイスの前に設置してあるベンチに座ってる人、大戸屋の店員さん、そういう人達の表情を、なんとはなしに一瞥する。

基線(正面を向いている顔。きっかけ無しに始まってる人の顔立ちの事。素の表情)というものは当然あって、その基線の上に、本人の性格、トレジャー(本人のみ知っている事)が乗っかって、その基線に上塗りされた結果、その人独特の顔つきになる。

その顔つきは、その人が今まで生きてきた年数、経験、知識、そしてその時の感情によって変化する。そんな基線のトレジャーを垣間見る瞬間、その人の本質なんかが分かった気になる。

今見た笑顔を店主に伝えたいと思った。できれば有料で。アルバイトとして賃金をもらいながら。店から去っていくお客さんの表情を、店主から見えないお客さんの表情を、伝えるアルバイトがあれば良い(楽くだ)なあと思った。

働き手の僕は、お客さんに店の者だとばれないよう、逆覆面調査員として、店先を交互に行ったり来たり歩き続ける。又は近くのアパートに部屋を借りてもらい、窓からでっかい望遠スコープで覗く。

そういうバイトがあったとすれば、僕は今すぐ応募したい。

表情を伝えるアルバイト員は正直者である必要がある。お客さんが毎度笑顔であればよいのだが、晴れない表情の日もあるだろう。その悲しみをいち早く察知して、お客さんに気付かれないよう店主に伝えなければならない。

そんな時に、正直者ではない、あるいは店主を気遣う優しい嘘つき者が、間違った報告をするならば、いつか悲劇に繋がる。このアルバイトには、正しいことしか言えないロボットのような誠実さが求められるのだ。それでも店主はその嘘の報告を元に、明日も笑顔を届けるよう努めるのではないかとも思う。

僕は正直者であるが、親しい間柄において、ときどき、正直者でなくなる。なぜなら、相手にとって耳の痛いことを正直に告げて、気まずい瞬間を生み出すのが嫌だからだ。相手との関係に波風を立てないよう、僕は嘘つきになる。

僕がこの小さな珈琲屋で、表情を伝えるアルバイトをするためには、この珈琲屋に一度として来店したことがないという事実が必要になる。小さなお店ほど交流が深いから。

店の前を通るたびに、いい匂いがする。その香りにいつも心惹かれている。あの日の笑顔を見て以来、その香りが、より強く僕を誘う。その香りはまるで、味も色もない幸福感の全てを記憶した微粒子が空気中に散布されているかのようだ。その微粒子が、僕の鼻から入り、脳に浸透すると、僕はどこか安心するのだ。

店先から流れる匂いだけでこれなのだから、店内に立ち入ったとき、その匂いの濃度がさらに高まるのだとすれば、その幸福感の濃度は、僕の脳が処理できる限界を、容易に越えてしまうのではないかと思う。

だから、いつも通りに店の横を行き過ぎ、そのまま振り返ることなく立ち去り、その香りを記憶するにとどめる。

今日も僕は、家で珈琲を飲む。

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