ことばに誠実な人へのラブレター
11月は言葉についての想いに頭がぐるぐるしていた。
正確には人がその言葉を選ぶということ。
わたしには
「その人とその人が何かを話すもしくは書くときの言葉の選び方がどうしようもなくすきだ」
という感覚があって、
くわしく考えてみると文体やスタイル、技術とは違うものな気がしている。
わたしがそういう風にすきな人たちの何人かは
本当に美しい文章を書いたり、すぐに理論だった受け答えが組み立てられたり、いわゆる「文章が上手い」、「口が立つ」人もいる。
だけど同じくらいの人数で
自分の感じていることにふさわしい言葉を探して黙ってしまったり、その感情の方が強くてその単語を繰り返しながら泣き出してしまう人もいる。一般には「口下手」とか「不器用」と分類されている人たち。
その人の言葉選びが上手いとか下手とかの器用さではなくて、選び方が本当にすきなんだと思う。
すきさ具合が自分でもちょっと気持ち悪くて持て余していたのだけど最近ちょっとその「すき」の輪郭がわかってきた。
先日、和歌の朗読会に行き、文化的背景や詠み人の人生、その歌を詠んだ状況など親切に伺いながら和歌を聞いていたときに発信者としての人と言葉について考えた。
三十一文字というスペースはとても狭いようで、果てしなく広い。
一つの和歌にいろんな解釈があるのもそのためだと思うけれど一つの言葉は実は内包する意味がとても大きくて、しかも同じ言葉を同じ重さで相手が受け取ってくれる保証はない。
例えば「桜」という言葉も桜を見た経験やどんなモチーフとして受け取るのかは個人によって確実に同じにはできないから。
何かを感じた瞬間をどう捉えたのか、同じ時代に生きていたとしても同じものを見ることはできない。
同時に言葉にしなければそれがあったことすら残せない。
伝えられない。
だから選ぶ。その枠の中に選び抜かれた言葉が並んで、一首が出来上がる。
そうして1000年以上すぎて今その和歌を聞いてると思うと感動する。
古今和歌集には
やまとうたはひとのこころをたねとして
よろづのことの葉とぞなりける
とあるそう。
それが今だに言葉という用語で使われているのすごいと思う。
わたしが気持ち悪いほど好きな人たちは「種」から「葉」までの行程に対して誠実なんだろう。
上手にやろうとか、恥をかかないようにとか、誰かのためにわざと変えたり、そういう過程を経た言葉には宿らない誠実さがあって、
技術(和歌でいうなら掛詞とか枕詞)はそのあと付随することなんだろうな。
耳が痛い。
自分の心と合致した言葉を使えば、
否定されたときに傷つくことも生身で受け取らないといけないし、
誠実に選んだからって伝わって欲しいかたちで受け取ってもらえるかわからない。
心とずれのない言葉を使うことは勇気と覚悟が必要で、
だからこそそういう人たちがだいすきなんだと気づきました。
勇気をだして伝えてくれてありがとう。大好きです。
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