子どもとの向き合い方~未熟な存在をいかに尊敬できるか~
最近はやっと時間に余裕ができて、子どもとの向き合い方を考えるようになった。
今まではフルタイムで仕事をがっつりしていて、平日夜にはとにかく夕飯・風呂・歯磨き・片付け等のタスクに追われて、休日は疲れた体にムチ打ちながら家事を片付け公園に付き合う日々。正直、一緒にいても心ここにあらずで、向き合うどころではなかった。
そうやって時間に追われて向き合うことができなかった罪悪感が、心の片隅にずっと渦巻いていて。
よし!これからは子どもたちともっとちゃんと向き合うぞー!って、思っていたわけだけど。
いざ蓋を開けてみれば、時間の余裕ができる=子どもと向き合う余裕ができる、というわけではなかった。
着替えをしない、歯磨きをしない、風呂に入りたがらない、きょうだい喧嘩をする、ご飯を食べずにお菓子を食べようとする、気に入らないことがあると泣き喚く、延々とYoutubeを見続ける。
やるべきことをやらずに、やらないでいいことばっかりやり続ける。
時間の余裕ができたところで、私のイライラ・モヤモヤは止まらない。むしろせっかく向き合う時間を作ろうとしているのに上手くいかない自分に対しても腹が立った。
改めて気付いたことは、私は子どもと一緒に遊んだり、話したりすることが苦手だ、ということだった。
そして子どもたちはこちらの都合は無視して平気でお願いしてくる。家事をしながら、「ママこれやってー」「ママ一緒に遊ぼー」「ママーおむつー」という割り込みタスクにいちいち対応しなければいけない。
シングルタスク型の私には、この割込みもかなりのストレスだった。
もしかしたら今までは仕事に追われることで、無意識に向き合うことから避けてきたのかもしれないな、なんて思ったりした。そんな自分にまた悲しくなった。
でも自分が親子関係につまづいて苦労したから、子どもにはそんな思いをしてほしくなくて、子どもの発達だったり、自己受容感・自己肯定感を高める方法だったり、アドラー心理学の本なんかを色々読み漁ってみたりして。
子どもを1人の人間として尊敬し接するのが重要、という自分なりの結論に達した。
だけどそれがまたなかなか難しかった。
私の(反面教師である)両親はというと、「大人のいうことに子どもは従いなさい」というスタンスだった。
例えば大人の会話の途中に子どもが割り込んできたりするシーンはよく見かけると思うけど、中断して子どもに注目してあげるケースが多いんじゃないかな。(少なくとも私はそうしているし、周りのママ友も同様なケースが多い。)
だけどうちの家では「大人の話が途切れてからにしなさい」と厳しく言われていた。大人になった今でも人の話に割り込めないし、自分の言いたいことをいつ言おうか様子を見てしまい、逆に人の話が入ってこない場面も多い。
あとは「子どもは21時には寝なさい」というルールも小学校卒業まで守らされたりしたな。友達がみんな見ていた21時からのドラマも「教育に悪いから」と見せてもらえなくてすごく悲しかったことを覚えてる。(当時流行っていたのは「家なき子」。「同情するなら金をくれ!」というセリフを見せたくなかったらしい)
大人は21時以降も起きてるしドラマだって見ている。様々に課せられる理不尽ルールに、子どもながらに「なんで大人はいいんだろう?」と不公平に感じていた。
そうやって私は「子ども=未熟な存在」として扱われていたことを強く記憶している。もしかしたら時代的な背景もあったのかもしれない。(昔より今の方が弱者に対してしっかり権利を尊重しようという風潮がある気がする。)
そんな調子で子どもの頃に尊敬なんてされていなかったわけだから、自分の子どもに対して尊敬する方法がわからなかった。反面教師として「これをしちゃダメだ」とわかっても、「じゃあこうしたらいい」が一向に思いつかないのだ。
「だって、子どもは大人に世話をされ、養われないと生きていけない未熟な存在でしょ。どうやって彼らを尊敬すればいいの?」と、私の中の正直な悪魔が囁く。
これが払しょくできないと、子どもの言い分を受け止め、彼らができないことをできるようになるまで見守り、ときに勇気付けたりすることなんて、到底できない。
たとえどんな素晴らしい本を読んでポジティブな声掛けを意識したとしても、本に載ってるケーススタディとは異なる場面がごまんとあるのが育児だから。例外処理が走った瞬間に、私の中の悪魔は簡単に顔を出してしまう。
そんな暗中模索な毎日の中で、たまたま保育園からのお知らせに「おやこのミカタ」というサイトのチラシが入っていた。もしかしたら何かヒントが得られるかもと思い、サイトを開いた。
ミカタ=見方=味方
子ども支援専門の国際NGOセーブ・ザ・チルドレンは、ポジティブな子育ての啓発活動を行っています。
2020年12月からスタートしたウェブサイト「おやこのミカタ」のコンセプトは、「子どもの見方(視点)に気付くこと」。
「おやこのミカタ」は、子育て中の方や日頃から子どもと接する方が、子どもの「見方(みかた)」を知り、子どもとのつきあい方のヒントを得ることで、子どもの「味方(みかた)」になることを目指しています。
そして、私たちが親子や子ども・子育て支援の「味方(みかた)」になれたら・・・。
そんな思いがたくさん詰まった「おやこのミカタ」です。
(「おやこのミカタ」About usより抜粋)
自分が忘れてしまった「子どもの見方」って何だろう、と思って読み進めていくうちに、「子どもの権利から考える子ども」というインタビュー記事にたどり着き、「ヤヌシュ・コルチャック」という人物の考え方に「これが私の求めていたものかもしれない」という予感がした。
ヤヌシュ・コルチャックは、「子どもは幼いころから大人に単に守られる存在なのではなく、自分自身でものごとを考え、決めていこうとする存在である」という考え方を提唱した人です。~中略~コルチャックは、1900年代にポーランドで小児科医として、のちに、孤児院の院長、教育者、そして作家としても活躍しました。子どもと関わる仕事の中で、コルチャックは、その主著『子どもをいかに愛するか』(1918年)の中で、生まれてくる子どもを人間として理解し、愛し、信じることはどういうことなのかを人々に教えようとしました。
(上記インタビュー記事より抜粋)
「子どもたちの思考は大人より、少ないとか、貧弱だとか、劣るとかということはない。それは大人の思考とは別のものというだけのことだ。私たち大人の思考においては、イメージは色あせ、古ぼけており、感覚はぼやけて、ほこりにまみれているかのようだ。一方、子どもたちは知性ではなく、感性で考える。だからこそ、私たちが子どもたちとの共通の言葉を見つけるのがとても難しく、子どもたちと話をする能力ほど複雑な技術はないのだ。」 (ヤヌシュ・コルチャック:上記インタビュー記事より抜粋)
この記事だけでは腹落ちして理解できていなかったけれど、この人の思想を辿れば「子どもの権利」を通して「子どもを一人の人間として尊敬する」ことができるんじゃないかという直感があった。残念なことにコルチャック自身の著作は手に入るものがなかなかなくて、インタビュー記事に出ていた塚本先生が書いている一冊の書籍を買った。(この本は今まさに読み進めているところ)、私は頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けることになる。
同時にコルチャックの著作をネットで調べていく中で一つの論文に出会い、私は頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けることになる。
それは「もう一度子どもになれたら(コルチャック著)」という児童文学小説についてまとめられた論文だった。
この小説の内容を要約すると、教師だった「僕」が記憶や知能はそのままに子どもへ戻り、子どもの視点と大人の視点を行き来しつつ、ときに読者に対して「あなた」と呼びかけが入るような構成となっているらしい。
その中の引用された一文に、私は衝撃を受けたのだった。
大人の読者へ
あなたは言う:
─ 子どもを扱うのはめんどうだ。
あなたは正しい。
─ 私たちの知性のレベルを子どもに合わせて下げなければいけないのだから。
身体をかがめて、ひざを曲げて、しゃがまなくてはいけない。
─ あなたは間違っている。
子どもを扱うことがめんどうなのは、そういう理由からではない。そうではなくて、私たちが子どもたちの感性の高さに届くように手を伸ばさなければならないからだ。手を伸ばし、背を伸ばし、つま先立ちをして。彼らを傷つけないように。(“When I am little again”p.3)
そうか、そういうことだったのか。
私が子どもを扱うのを面倒だと思っていたのは、彼らの完成の高さに手を伸ばし、背を伸ばし、つま先立ちをするのが面倒だったから、「子どもは未熟だ」と思い込んで逃げていたからだったんだ、と。
確かに自分が子どもの頃は、世界は新しいことだらけで、新鮮で、昨日できなかったことが今日できるようになっていて、自分はなんだってできる、何にでもなれるような気がしていた。
だけど一方で、不自由なこともまだたくさんあって、「早く大人になりたい」とも思っていた。(ちなみに「もう一度子どもになれたら」の主人公「僕」は、時が経つにつれて大人の感覚を忘れていき、「早く大人になりたい」と思うようになるらしい。よくできている。)
あの頃に夢見た「大人」になった私は、あの頃にあった感性の代わりに知性を得て、自分の限界を知った。というか、自分に対して諦めるようになってしまったのかもしれない。
子どもは擦り傷ができようと前のめりに走る。だけどいつの間にか大人になると、「このスピードで走ったら転ぶな」と思って走る速度を緩めてしまう。
そうやって自分で決めた限界は、いつの間にか自分自身の可能性を狭め、縛っているのかもしれない。
・・・閑話休題。
私はコルチャック先生にハンマーで頭をぶん殴ってもらったおかげで(?)、子どもの感性に背伸びをすることから逃げなくなった。
今朝も相変わらず子どもたちは支度をしないし喧嘩ばかりするけれど、そしてそれに対してイライラもするわけだけど、「この子たちにはどんな世界が見えてるんだろう」と尊敬のまなざしを向けられるようになった。
そういえば子どもたちがまだ赤ちゃんだったころ、転んでも転んでも立ち上がろうとする姿に勇気をもらったことがあったっけ。
あの頃は言葉が通じなかったけど、彼らから感性のカケラをもらえていたような気がする。
今の子どもたちは二人とも会話ができるようになったけれど、あの頃みたいに彼らから感性のカケラを受け取ることはできていないのかもしれないな、なんてことを思ったりした。
きっと子どもたちが大きくなっていく中で、これまでとは比べものにならないくらいのスピードで、世界は変わっていくだろう。
親である私の役割は、子どもたちがどんな世界の中でも生き抜いて、幸せになる力を育むための手伝いをすることだと思う。
君たちが世界を面白がって、楽しんで生きていけるように、私は君たちをこれからも尊敬して、お互いの感性や知性を交換しあって、一緒に生きていきたいと思う。
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