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【車に轢かれて詩集を出すことに決めた話】2/3

詩の同人誌の編集長である筆者の事故体験談を書いてます。全3テキスト中の2番目。この章のみで約2,500文字・平均所要時間5分程度です。

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ここで、改めて僕の自己紹介をしておこうと思う。僕は事故の1週間前に41歳(後厄・お祓い済み)になったばかりの楽器店の販売員で、ギターと現代詩と家族をこよなく愛する、ごく一般的な成人男性である。

楽器販売員と同時に趣味で詩の同人誌の編集長をしており、最近「詩のNPO法人」なるものを登記して代表理事になってみた。妻とも詩がご縁で知り合っている。詩はそれくらい好きである。

その妻も上記の同人誌のメンバーの1人であり、僕が事故った翌日に強行した仙台巡礼も、その同人誌のメンバー達と同行であった。(その時身重だった妻は留守番であったが)



さて、事故の翌日。目が覚めたら、やたらと胸が痛いのである。呼吸するだけで右胸が痛い。肋骨に異状はないと医者は言うが、絶対嘘である。だって起き上がるのすら無理くさいもん。

朝の5時である。外はまだガッツリ暗い。

ほんの12時間前の健康体だったときの感覚が全然思い出せない。兎に角今日は仙台に行って、先輩詩人の詩句にインスピレーションを受けて製作されたという映画「The Body」を観たり、ツイキャスで同人仲間にインタビューしたり、牛タンを食べたり、萩の月をお土産に買ったりせねばならぬ。

身重の妻は僕の気配で目を覚ました。本当に行くのか、、と言う諦観が眉間から溢れ出ている。

僕は申し訳ない気持ちと戦いながらも気合いで起き上がり、支度して、駅へと向かった。条件反射に体をすくませながら事故現場の交差点を過ぎ、電車に乗り、最寄りの新幹線の駅へ死に物狂いで辿り着くと、大先輩詩人の広瀬さんが先に到着していた。

僕は広瀬さんにだけ昨日の出来事を告白し、これから合流する予定のあと二人の仲間たちには、楽しい旅の間中心配させないために、事故の件は帰りまで内緒にすることにした。

息をするだけで右の肋骨がもげそうになるくらい痛いが、新幹線の中では駅弁を食べて誤魔化し抜いた。美味しいものは善である。(でも何を食べたか全然思い出せない)

食事を終えると詩の話に花が咲き、時を忘れた。だんだん自分は痛みに対して大袈裟過ぎるのかも知れぬ、という気持ちになってきた。

仙台に着くと帰りの電車の都合もあり、一気呵成であった。

まずカラオケボックスに入り、感染症対策を万全にした上でツイキャスで仲間にインタビューを1時間。

それから仙台の街を映画上映の会場までぶらり旅。なんか痛みも大丈夫っぽいなー、と思っていると、スマホがバイブした。例のおば(あ)ちゃんからの着信であった。

「あの、今からお詫びに伺ってもよろしいでしょうか、、」と殊勝なことを仰る。無論無理である。おば(あ)ちゃんもまさか自分が轢き倒した人が翌日杜の都にいるとは思わなかっただろう。

僕は何故かしどろもどろになって、来訪を翌日に伸ばしてもらった。それから僕たちは美しい仙台の街を抜けて映画館に向かった。

広瀬さんに紹介してもらって新しい詩人の仲間と出会い、素晴らしく刺激的な映画を観、お土産を買って仙台旅行は恙無く終わった。

牛タンは帰りの新幹線の中、駅弁で食べた。紐を引くと熱々になるやつである。いつか妻と生まれてくる子供に食べさせたい旨さであった。善。

翌日は月曜日で、その日は流石に会社を休むことにしていた。朝イチで病院に向かう。待合室は激混みで、3時間待ってもう一回改めてスマホ首と診断された。

午後、おば(あ)ちゃんが息子さんの運転(と車)で、我が家の前まで来た。何となくお見舞い金だったら断った方が良いのかな、とか考えていたら四角くて大きい包みだった。恐らくお菓子である。

文字通り現金なもので、お菓子と分かると、心のどこかで「ちぇー」という気持ちになってしまう。人って怖い。

お見舞いの品を僕に手渡すと、おば(あ)ちゃんは90°を超える急勾配のお辞儀で平謝りである。流石に少し絆された。

だがおば(あ)ちゃんとその息子を見送って、嫁と包みを開けてみると、がっつりアルコール入りのお菓子が現れた。

えぇ、、。

情に絆されかけた我が心がまた煮え立ってきた。何と言うか、多分、値段だけでマッハで選びました、という感じである。気持ちは分かるけれども。

僕に投薬が無いのでまだ良いが、血行促進して痛みが増してもやだし、妻も食べられないし(妻がもうすぐ臨月だということは、事故初日のおば(あ)ちゃんからのお見舞いの電話の際に伝えていた)、普通リスク避けてアルコール入りは選ばないんじゃない?僕なら真っ先に店員さんに聞くけども!そんなうっかりさんだから事故るんじゃないもう!

結果僕は、やっぱり許さん。となった。なったものの、どうして良いかは分からなかったので、取り敢えずは保険会社からの連絡を待つことにしたのだった。

次の日、残務もあったので、痛むアバラを押さえながら職場に顔を出したら、すぐに優しく帰らされた。轢かれた日のうちに職場のグループラインで救急搬送された旨を伝えていたので「不死鳥」という渾名がついた。

帰る途中、警察署から電話があり、調書を作成したいので、近々警察署まで来ていただきたいのだが体調やスケジュール的に大丈夫ですか、とのことである。

僕はその日のうちに警察署に行くことにした。今思えば、事故後の数日はいくらかハイになっていたのだと思う。

職場から帰った不死鳥は診断書と免許証と印鑑を持って警察署へと向かった。自宅から自転車で10分くらいの距離であるが、署の警察官さんは「え?チャリで来たの?」と言う顔で僕を見た。

この辺は車社会なので自転車が珍しいのかと思ったがそうではなく、事故の規模に対して僕が元気だったので驚いたらしい。

ヘッドライトのカバーが粉々だったのは曖昧な意識の中で見ていた記憶があるが、フロントガラスにも結構なヒビが入っていたらしい。

「ご老人なら亡くなっているレベルでした」というお言葉を頂戴した僕は、おば(あ)ちゃんを罰しない選択もありますがどうしますか?という趣旨の事を聞かれたので「普通に罰してください」とお願いした。

それから、事故の反省点(どうしていれば今回の事故を防げたかという僕側の改善点)を聞かれたが、青信号を普通に歩いていただけなので、答えに困った。

刑事さんも苦笑していた。反射材を用いたお洒落をしようかな、と僕は思ったが、どうしても僕の素材を活かすコーディネートが浮かばなかったので、止めることにした。

なんか轢かれると皆優しいなぁ、などど呑気な事を考えつつ、帰宅した。ふと、帰り道、今回の事を詩に纏めあげて、業界最大手の雑誌の新人投稿欄(優秀作品は掲載されて名誉)に投稿しよう!と言うアイディアが閃いたので、早速事故ズ・ハイを利用して渾身の力作をものしたが、選には掠りもしなかった。甘かった。


そして、丁度その落選が判明した、事故から約1ヶ月後頃、真のしんどさが何処からともなく訪れたのであった。

つづく

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