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日記(6月中旬) 雨と花と比喩

一足飛びに夏になってしまったかもしれないという眼差しを洗い流すように長い雨が降っている。
土曜日から梅雨入りするらしい、と研究室で聞いた友人から聞いた。あまりにも人伝すぎる梅雨入りの予報について数秒話して、場の話題は別のことに流れていく。

誰かの予報では梅雨入りはまだなのに、もうすでに雨は降り出してしまった。大学へ行くときにいつも通る道は、雨がひどいと冠水してしまう。冠水、というか、坂の下にできる水たまりがあまりにも大きく、道幅をうめてしまう。雨の日はその道を避けようと思うのだけれど、毎回そのことを水たまりを見てから思い出す。

6月の頭くらいに咲き出した花が、雨に濡れながら色褪せていた。雨のせいなのかもしれないし、単に時間のせいなのかもしれない。
花が長雨に色褪せる和歌があったな……と思いながら、傘をさして大学まで歩いた。

花が長雨に色褪せる和歌……「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに/小野小町」だ。思い出した。ここでいう「花」は桜のことだと習った記憶がある。だから桜の季節の雨なのだろう。そういえば今年の桜の散り際にも雨が降っていた。僕はその雨の温度や触り心地をもう覚えてはいないが、歌に詠まれると雨は1000年残るらしい。

今降っている雨のことも、きっと夏が来たら僕は忘れてしまう。
イマジナリー文学者(後世で僕の作品を研究・分析している)が、ここでいう「雨」は苦しみの比喩だと言った。別にそんな意図はない。ただぼんやり雨のことを考えていた。
しかし本当に、今苦しんでいることを時間が経ったら忘れてしまうのかもしれない。将来の僕が、今の僕の苦しみを「若さ」のせいだけにしてヘラヘラ笑っていたら殴ってほしい。早く忘れて先に進みたいことはたくさんあるけれど、それをなおざりにしたら昔の僕に殴られてしまう。

雨はずっと降り続けている。


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