フラジール

4月17日
朝4時に起きてしまい、そこからだらだらと支度をしたあと作業に向かった。

本来だったら昨晩やるはずだった作業。仮眠がガチ寝になってしまったからには朝活でカバーするほかない。朝は苦手だが、睡眠の質が良かったのか、今日はあまり眠くない。温かいミルクティーをお供に、バイトのテレワーク出勤時間までパソコンに向かった。

時刻は午前11時、バイトの作業に着手。まだ眠くない。
作業がひと段落した頃、小休憩にSNSを眺める。すると、ひとつの投稿が目を引いた。医療従事者の嘆きの声だった。

「最近、コロナ関係で頑張る人たちを『ヒーロー』だとかもてはやすけど、やめてほしい」

その投稿に対するコメント欄は同情する人たちと「なんでそんなことを言うのか」と憤る人たちが入り混じり、またそこでも論争の起きるカオス状態だった。
どちらが正しいかなんて、私には決めかねる。ましてや、投稿主の考え方が医療従事者総員の意見とも言えない。酷な言い方だが、一人間の一意見にすぎない。

意見を持つことは素晴らしいと思うし、当然の自由だと思う。ましてや、それを発信することはとても勇気のいることだ。私は自分の意見を表明することが幼い頃から苦手なので、ちゃんとできる人のことを尊敬している。
でも、その自由は裏を返せば『発言に責任を持つこと』だ。投稿主もコメントする人も、全員。
発言主はわりと『これが自分の意見だ!』という感覚が残った状態で投稿する場合が多いので、自然と責任を持つことが多い。言葉足らずな部分があれば追記をするし、誤った部分があれば釈明なり謝罪なりする。
ただ、コメントする側は責任のことを忘れるうっかりピーポーが跡を絶たない。例の投稿にも「そんなにつらいなら辞めればいいのに」とコメントしている人がいた。その人にしてみれば至極当然の意見で、ど正論とも言うべき発言だったに違いない。でも、それを受け取った相手がどう思うか?「ああそっか、辞めちゃえばいいか」などと首取れるくらい同意して、看護服を脱ぎ捨てて帰るとでも思っているのか?
きっと、その人は今まで逃げても辞めてもなんとかなることばかりだったのだろう。そうであれば、相手の苦悩を無視してリセットボタンを連打できるメンタルがつくはずだもん。

同情するコメントだってそうだ。
直接的な攻撃はしていないように見えるが、それが悪になることだってある。なぜなら、『同情』が『発信者と100%同じ感情』という意味ではないからだ。手放しの慰めや取ってつけたような優しさは無関心と紙一重で、時には残酷だったりする。その発信者だって、同情や慰めを求めてたのか?ただ単純に、そういう風潮を止めたかっただけなんじゃないか?

言葉は丁寧に扱わないといけない。時には凶器にだってなりうるから。
少なくともそう思って生きてきた私には、他人に対する言葉ほど取り扱いが難しいものはないと思っている。どんなに注意していても、無意識に他人を傷つけてしまうことだって未だにあるくらいだ、いつだって気が抜けない。
だからこそ、あの投稿によって繰り広げられる言葉の銃撃戦に、見ているだけで疲弊してしまった。

まあでもこれも他人事。私がそれに賛同するとかしないとかは、選挙投票でもない限り明確にしなくてもいいことだ。
ただ、「こういう考えの人がいる」ということを受け止めて自分の生活に戻ればいいだけ。もし、同じような状況やどうしても考えを求められる場面に対したときに、以前に見聞きした意見の中から、1番納得のできる自分の意見をちゃんと持てればいい。
干渉しすぎず、無関心すぎず。これがなるべく人様を傷つけずに生きるひとつの方法だろう。

ということで、私は茶漬けを食う。自分を持つためにも自分の好きなものを目一杯愛する。
今日は高菜茶漬のアレンジがうまいこといって、最高の高菜チャーハンができたから120点である。

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