飛ばぬ弾丸、折れた剣
その遺跡は、太く大きく発達した植物たちによって身体を支えられ、崩れかけても尚その心を折らない。
イルミナスは少し離れた処から、調査をし終えた緑の遺跡をどこか上の空のまま見つめた。湿気を含んだ、心地好いとは到底言えない風が頬を撫でる。
イルミナスは痛みを堪えるように瞼を閉じて、吹き往く風を想った。
(……何処へ)
何処へ往くのだろう、風は。
何を守るのだろう、風は。
……何を守れるのだろう、風は。
✴
倒れた柱の一つに腰をかけて、イルミナスはぼんやりとその瞳に虚空を映した。
遺跡を踏破したことにより、その透き通るような翠玉の髪のところどころに細砂が絡まってはその輝きを半減させている。そして、彼女が着込んでいる、ややマントに近く見える田舎風の上掛けや何処かの民族文様が描かれているスカート、その下に穿いた分厚い布でできた土色の洋袴でさえも埃にまみれては、まるで彼女の快活さを削ぐようであった。
それらを吹き飛ばしてくれる風にも今は力を借りる気になれず、イルミナスは薄汚れてしまった手袋をはめた己の手のひらを見つめる。
(守る、力があれば……もっと大きく、もっと強い……)
何故、自分の手のひらはこんなにも小さく、弱いのか。
出会った少女、その一人も守り抜くことができないこんな手で、自分は何を守るというのだろう。何を、守れるというのだろう。
(黄昏……)
何故、この地の人々は、世界から少しばかり力を借りることしかできないのだろう。
確かに、心で呼べば風は自分に応えてくれる。その力も、クエルクスの話によれば心によって左右されるというのだ。
だが実際のところ、そう言われてもあまり実感は湧かない。——息をするくらい当たり前に、誰もが生まれてから今までずっと借り、使ってきた力だ。それはイルミナスとて同じことで、この力に対して何故、と疑問を持ったことなどなかった。しかし実感は湧かなくとも、何となくその原理は理解した今である。
イルミナスは両手をきつく握った。
(こんなわたしの心では、何をも守れないのかもしれない……)
自分を含むこの地の人々が、もっと強い力を持ってさえすれば。
才あるものが必死に学ばなくとも、それにより覚えた長ったらしい呪文を諳んじ、決まった形式をきっちりと守らなくとも、誰もが指一本で強大な魔術を扱え、自分の身を守れたなら。
錬金術が素材を必要とせず、本物の無から有を生み出す力であって、それにより無限に水が生み出せたなら。
飛空艇なしで空を飛び、緑が溢れると云われる新天地へ向かう力が有ったら。
砂航船なしで干乾びたかつての海、塩の大地〈白き海〉を越えて往く力が有ったら。
存在するかも分からない神、それすらをも手にする力が有ったら。
片手の一振りで黄昏を斬り裂く、その力が有ったなら——
「ルーミ」
声をかけられて、何やら危ないところまで入り込んでいたような気がする心を、イルミナスは何とか持ち上げた。
顔を上げると、そこに立っていたのは今回共に遺跡を調査したトレジャーハンター。彼の濃い灰の髪の中で一房のみ白く染め上げられている、前髪近くの髪がぬるい風に揺れた。
今、イルミナスの前に立つのはハイク。ハイク・ルドラである。
彼の鋼玉に似た瞳が遺跡の方を一瞬向いた。
「ウルグはもう少し辺りを調べてみるらしい。あんたはいいのか、ルーミ?」
さながら舞台へと誘うように彼はそう言うと、どこか踊るような調子で歩を進め、イルミナスが座っている倒れた柱の上に自身も腰を下ろした。
イルミナスは風を切る力を失った銀翼の瞳で彼の鋼の瞳を見上げたが、しかしそれもやはり一瞬で、彼女はすぐに目を逸らすと、再び虚空を見つめたのだった。
そしてそれからしばらくすると、心の底に留めておくべきの、たとえ思ったとしても、誰がそれを言ったとしても、この大地に立つ國の王、その娘である自分だけは口に出してはいけないと思っていたはずの言葉が、イルミナスの気持ちとは裏腹に口を突いては零れ落ち、そして湿っぽい風の上に乗った。
「——〝魔法〟が在れば、よかった」
「……魔法?……物語によく出てくる、あの?」
「……そう」
「魔法、ねぇ……」
ハイクは遺跡の何処で見付けてきたのか、赤い炎が揺らめくように遊色している、拳ほどの硝子玉を手のひらの上で転がすと、軽く息を吐いてその硝子玉を軽く叩き、言った。
「魔法なんてつまらないこと言うなって。物語に出てくる魔法ってのはさ、無尽蔵に、無条件に力を与えてくれるものばかり——だろ。〝ただより怖いものはない〟って、よく聞かないか。……何かを得るためには、何かを失わなければならないこともあるんだ。と、いうか、その方が多かったりもする……そうだろう?」
「けれど、失うのは……怖い。進むことも、守ることも、進めないことも、守れないことも……」
「……きっと、誰だってそうだ」
「わたしは、何を、何を……守れるだろう……」
鋼玉が、手のひらに在る炎の硝子を見つめた。
彼はそれを己の目線の高さまで持ち上げると、それを通して先ほど踏み入れた緑色の遺跡を目に映す。揺らめく赤色の中に強き緑がそびえて見えた。それは、さながらこの大地に沈む夕焼けのように美しい色。
遺跡を透かし見たまま、彼は少しばかり歌うように言った。
「なあ、在るだろう、魔法が在ったら、守れたものが、失わなかったものが。でも、在るだろう?……魔法が在ったら、守れなかったものが、出会えなかったものが。なあきっと、暮れていく世界でしか見えない色も、在るだろう?」
「それ、は……でも……」
「ルーミ。——あんた自身は、結局、何を信じていたかったんだ?」
唇を噛み締めて、イルミナスは俯いた。
言葉もなく声もなく、涙など流せるはずもなく、己の心ばかりが理想を叫んでいる。
手のひらを白むほど強く握っては、イルミナスは自らの心に問いかけた。
何処へ往くのだろう、風は。
何を守るのだろう、風は。
何を守れるのだろう、風は。
何処へ往くのだろう、わたしは。
何を守るのだろう、わたしは。
何を守れるのだろう、わたしは。
何を信じていたかったのだろう、わたしは。
人を?
違う。
希望を?
違う。
理想を、夢を?
違う。
風の力、己の剣を?
——違う。
「わたしが、信じていたかったのは……」
それは紛れもなく、〝わたし〟だった。
自分の意志を、自分の心を、わたしは信じていたかったのだ。
だが、それを信じて突き進んだ結果が、今だ。
魔獣を何匹も、殺した。
何人か、殺した。
そして一人を、守れなかった。
そうだ、わたしは怖くなってしまった。
失うこと、進むこと、守ること、進めないこと、守れないこと、自分を信じることが。
そうして、誰をも守れぬ剣は折れたのだ。道を切り拓く風は止んだのだ。
未だ俯くイルミナスの耳に、銃声が二発鳴り響いた。
それが随分と近くで鳴ったものだから彼女の深く沈みゆく思考は一瞬吹き飛び、後に残るのは稲妻の余韻のように頭と目の奥に散る微かな光たち。
イルミナスは思わず耳を押さえた。
銃声——空包である——を空に向けて鳴らした張本人であるハイクは、自らも耳に手をやりながら、まるで悪戯が成功した子どものような笑みをその顔に浮かべて立ち上がると、その場で一回転をしてみせる。
それから高らかに靴音を鳴らしては、暮れていく世界でしか見えない色をその、黄昏に踊る両手に掲げたのだった。
「……真面目に話したら肩凝ったな……よし、踊るか、ルーミ!」
差し出された手を取る。
剣は折れた、風は止んだ、守れなかった。——すべてが、怖くなった。
それでも尚、進むのだろうか。
何故、進むのだろうか。
雛鳥の銀翼がまだ、羽ばたけないままで。
何処へ往くのだろう、風は。
何を守るのだろう、風は。
何を守れるのだろう、風は。
——何を信じるのだろう、風は。
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