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ここに翼は舞い上がる

目次

たそがれの國外伝
『かわたれ星の子ら』



 星が燃えている。
 空の星ではない。人の掲げる、火の星が燃えているのだ。
 ——此処は王都〈アッキピテル〉。〝たそがれの國〟、〈ソリスオルトス〉を統べるアウロウラ・アッキピテルが君臨する、鷹の両翼のような城壁にその身を守られた、城郭都市である。
 王都の規則正しく整列している石畳の上で、錬金術師ウルグ・グリッツェンは、右の手に松明、左の手に燭台を有し、その深い青の瞳で暗闇にぽつりと輝く月を見上げた。星が一粒も灯らないこんにちの夜空は、まるで何処までも続いていくような闇をその両腕に抱えている。
 その真っ黒に塗れた夜の中で、丸く充ち満ちた月ばかりがただ白く、淡い光を放っていた。
「……くだらんな」
 大して地上を照らす気もないのだろう月を眺めながらそう零せば、
「けれど、たいせつなことですよ」
 と、少し前で振り返った少女が、仏頂面をしているウルグに向けてそう微笑んだ。
「お人好しの君にとってはそうかもしれんが、生憎俺にとってはどうでもいい」
「それでも、あなたはこうしてついて来てくれたじゃないですか、ウルグ?」
「お転婆な姫さまが火事でも起こしたら敵わんのでな」
「もう、またそうやって……」
 ウルグとは逆に、左の手に松明、右の手に燭台を持った少女は、彼へと向けてどこか呆れたような、困ったような笑みを、その顔に浮かべた。
 少女はこちらへと振り返ったままその歩みを止め、ウルグが自分の隣へ並ぶのを待つ。月ばかりが満足げに浮かぶ空の下で、赤々と燃え灯る松明を片手にした少女の、その透き通るような翠髪の左側が、赤に橙に、火の色を透かして輝いていた。手に持つ燭台に光は灯っていない。
「ルーミ、道の真ん中で立ち止まるな。君のことだからほんとうに火事を起こしかねない」
 そう言って隣に並べば、ルーミと呼ばれた少女——イルミナス・アッキピテルはその顔をちょっとだけむっと歪めて、手燭を持つ方の指先をウルグの方へと掲げた。
 その瞬間、ひゅうと冷たい夜の風が起きて、ウルグの浅焼けた顔の真正面へと吹き当たる。彼のうねる黒髪が、一瞬だけ翻った。
「だいじょうぶですよ、あなたが意地悪を言わない限りは!」
「では今夜は大火事だな、姫さま。水の力を借る騎士でも護衛に付けるか?」
 自身の口角をつい、と片方だけ上げ、皮肉めいた声色でそう発すれば、しかし、当の姫さまは遠く前方を見つめ、嬉しさと驚きが半々になった表情で、何やら小さく声を上げていた。
「……まあ、今日はもう大火事みたいなものだがな……」
 イルミナスと同じ方向を見やり、燃える松明と灯らない手燭を持ったまま、ウルグはそう呟いた。
 再び天を仰ぐ。やはり空に、星は光っていない。ウルグの瞳の青色よりも更に深い夜の色が、星をも覆って空に幕を引いている。そんな中、月だけは普段と変わらずに——むしろ独壇場だとでも言うように、淡い月光冠を、雲もないのにその身に従えさせていた。
 ——今宵は〝火ともし祭〟。
 一年の中で、太陽が最も早く地平線の果てに沈み、そうして普段よりも数刻早く下ろされる夜の帳にはしかし、満月が淡く輝くばかりで星は一つも灯らない、世界が眠りにつくための深い闇に包まれる夜である。
 ウルグは傍らで燃える火を見やった。その松明を少しだけ前へと掲げるようにしてみれば、光が自分の前を通り過ぎ、自身の隣で前を見つめるイルミナスの横顔を照らす。横目を彼女の方へと滑らせた。彼女の翠を纏った銀の瞳が、火の色を受けて、きらきらと輝いている。まるで、光が零れるようだった。
 星のない夜。
 旅人のための道標も、明日を示す、占いのための光も、そのすべてが眠りにつく夜である。
 ただ、人は眠らない。そんな夜に、人は眠らなかった。人とは、闇を見付ければ、手に持つ火でそれを削り、払いたくなるものだ。
 星明かりもなく、闇の深すぎるこの夜に、しかし——だからこそ人は、世界の各地で大きな、大きな火を焚き、その光で辺りを照らす。
 ウルグは、王都の中で最も大きな広場の中心へと、その目が釘付けになってしまっているイルミナスに自身の顔を向けた。それに気付いたイルミナスもまた、その顔をウルグの方へ向け、楽しそうに微笑む。瞳が輝いているのは、しかし火のせいばかりではないようだった。
「……火ともし祭は初めてか?」
「いいえ。毎年見に来ています。城を抜け出して、ですけれど……」
「ああ、君はそういう人間だったな。訊いた俺が馬鹿だった」
「ウルグは? 毎年参加しているのですか?」
「俺がそういう人間に見えるか?」
 言えば、イルミナスは肩をすくめて少し笑った。
 ウルグはその唇から溜め息を吐き出すと、松明を持つ方の小指に手燭の取っ手を引っ掛けて、煙草を取り出そうと左手でローブの隠しに触れようとする。しかしその瞬間、隣から飛んできた右の手のひらが、ぴしゃりと彼の左手をはたいた。
「——あなたが煙草を吸うと、わたしは動揺して突風を起こし、もしかするとこの辺りは大火事になってしまうかもしれませんよ」
「王位を継ぐ者ならば、自分の風くらい思うままに従わせてみたら如何でしょう、姫さま?」
「では、あなたは月を動かせるのですか、錬金術師さま?」
「は——姫さまがそう望むのならば、如何様にでも」
 鼻で笑ってそう言ってのけたウルグに、今度はイルミナスが溜め息を吐く番だった。最早日常茶飯事と化したこの小競り合いに、二人の持つ火が、どこか呆れたようにばちりと爆ぜている。
 火ともし祭では、火が焚かれている都や町、村里にまで騎士が出張り、見張りをしている。その祭をしている場所の入り口付近には、いつも必ず数人の騎士——辺境では村民である場合も多い——が立ち、祭へ参加する者に対して、一人一つずつ、松明と燭台を手渡す。
 その二つを貰い受けた者は皆、大抵はその場所の中心で焚かれている、巨大な篝火の元へと向かい、赤々と燃える炎へと獣脂を染み込ませた松明をかざし、その芯へと燃える灯りを受け取るものだ。
 或る者は光を受け取った松明の火を、また他の誰かへと分け与え、また或る者は、自分の松明と相手の松明の上に燃える火を、挨拶として交わし合う。
 そのようにして、人々は星のない夜に、地上で輝く星々たちをつくり、星座のように繋いでゆくのだった。
「——わあ、眩しいですね、ウルグ」
「資源の無駄としか言いようがないな。せっかくの長くて静かな夜だ、大人しく眠っていればいいものを」
 辿り着いた大広場をつまらなそうに見やり、そう毒づくウルグである。そんな彼に冷えた風を当てながら、イルミナスはきょろきょろと辺りを見渡して、ふふ、と鈴の転がるような声で、隣人の分まで楽しげに笑った。
「何が楽しいのやら……」
 呆れたようにそう呟いて、ウルグは口元から煙を吐き出した。
 ——星のない夜。月ばかりが輝く夜。
 ウルグ・グリッツェンは、月の力を借りる錬金術師である。
 月が存在を強く発すれば発するほど、月の存在を近くに感じれば感じるほど、彼の頭は冴えわたり、視界は新たな種を見出し、血管という血管すべてに、錬金術の成りかえ言葉が充ち満ちた。それはまるで、月の光がまばゆいほどに、彼の瞳もまた、醒めるような青へとなるようである。
 そう、つまり、夜空に月しか輝かないこんな夜は、一年に一度きりのこの夜は、月がそうであるのと同じように、ウルグもまた、一年で最も己に力を感じる日だった。
 つまるところ、調子が良い。絶好調だった。今ならば、新たな錬金術が無限にも発明できる。あのじじい——宮廷錬金術師クエルクス=アルキュミア・グリッツェンにも劣らない自信が今はあった。
 あの錬金陣とこの錬金陣をくっつけて、中心に描くのはあの言葉、いやむしろあちらの言葉を用いれば、この後の行程を三分の一ほどに省略することができるのではないか? ああそうだ、北のあの古代語と南のこの古代語をくっつけてしまうのはどうだろうか? 意味はほぼ同義。二つの地方の言葉を一つにしてしまえば、その二つの地方で得た素材両方に、術を施すことができる。そうか、過去の言葉に頼るばかりではなく、自身で新たな成りかえ言葉を創ってしまえばいいのだ。何故今まで気付かなかった? 創造を生業とする自分が、過去の言葉に頼りきっていたとは! 自分は錬金術師なのだ。己が術に遣う成りかえ言葉は、自分自身で創り出せばいい。
 ふと、目の前で翠色が踊った。イルミナスが彼より前へと出たのだ。ウルグの思考は大広場へと引き戻される。
 彼は早急に自身の拠点である〈ゼーブル〉に舞い戻って、月の声と血管中を駆け巡る言葉ことば言葉の本流に身を任せたまま、好き放題にその腕を振るってみたかったが、しかし容易には戻れない理由が目の前に在った。
 憎むべきは、渋る自分を強引に祭へと連れ出した姫さまのお転婆と、それに負けた己のこの心である。なんとなく、頭上の月が嗤った気がした。呪うべきが、あの月であることも間違いない。
 目に掛かってはうねる長い黒の前髪を、彼は鬱陶しそうに手で払った。そしてくわえた煙草を吸い込むと、再び煙と共に息を吐く。
 細くくゆる白色が、月だけが笑う黒い空へと溶けていく。いつの間にやら懐から取り出して吸い始めた煙草の火は、広場にひしめく篝火、松明、それらの火の粉に埋もれ、緩く喉を焼くような煙草の香りもまた、立ちこめる火と煙のにおいに掻き消されている。
 ウルグの半歩ほど前にいるイルミナスも、彼が煙草を吸っているのに気が付いていないのか、にこにこと楽しそうに辺りを見やっていた。
 広場には、立ち止まって火と火を交わす人たち、火を扱った簡単な魔術を披露する術師、闇を払う光を謳った歌曲を奏でる吟遊詩人、〝借りものの力〟だろうか、それとも何か種があるのだろうか、手のひらから炎を出して宙返りをしている大道芸人、軽快な音楽を跳ねさせている旅一座と、その楽の音に合わせて舞う踊り子、松明を作るための木切れ、ぼろ布、獣脂、そして燭台、蝋燭を乗せた荷車を運ぶ配達人、安価な軽食を売る屋台に、色とりどりのおもちゃの指輪を売る天幕、路地に近い場所を陣取っている占い師、その近くで絵を描く画家——そこに在る誰も彼も、どんな建物や物でさえ、人々が持つ火に照らされてはその影さえも忘れ去られるようだった。
 人のいない場所は深い闇だが、こうして人の集まる場所は、むしろ普段の夜よりも明るい。
 きょろきょろと辺りを見回していたイルミナスが、ふと思い出したようにウルグを見た。
「そういえば……ハイクさんも、このお祭りに参加しているでしょうか?」
「ハイク?」
 イルミナスの問いかけに、ウルグは表情も変えずに軽く息を吐いた。
「ああ、大方その辺りで歌でも歌って——……いや、そうか」
 ウルグは思案するように、視線を一度辺りの炎たちに向けると、意地が悪そうに軽く鼻で笑った。それから面白そうな光をその青い夜に宿すと、いつものように片方の口角ばかりを上げては、燭台を持つ方の人差し指で、肘を伸ばさずに軽く空を示す。
 眠るための深い闇の中、しかし絶えず燃える星の篝火に、魔獣さえも鳴りを潜める夜である。空を見上げても、そこを翔る生き物の影は一つも見出せない。ただ、それでもウルグの顔には、彼が新たな術式を編み出したときのような色が、うっすらとだが確かに浮かんでいた。
「——あれが、こんな低い処にいられるわけがないだろう」
 イルミナスの銀色を見て、彼はその青をほんの少しだけ細めた。
「お前と同じだ」
「わたし?……いいえ!」
 ウルグの言葉を受けた彼女は澄んだ瞳で彼を見て、それから小さく笑った。そうして彼女もまた、燭台を持つ方の指先を、勢いよく弧を描くように、天へと向けて掲げる。肘を伸ばし、腕を上げ、真っ直ぐに。
 イルミナスの白い手袋をした指先が、ウルグの目の前で風の軌跡を描く。眼前を通った濁りのない風を目で追えば、その先には白い月が、こちらを見ながら白く輝いていた。
「わたしと、あなた! そうでしょう、ウルグ?」
「……は、よく言う。おかげさまで煙草の火が消えた」
「もちろん、消したんです」
「これはこれは。有り難き幸せに御座います、姫さま」
「どういたしまして、錬金術師さま」
 ウルグが、はあ、と疲れたような溜め息を吐き、辺りへと視線を向ければ、ふと、林檎のような頬をした少女が、同じく林檎のような頬をした少年から、自身の手燭へと松明の火を貰い受けているのが目に映った。
 少女の燭台に備えられた蝋燭に、ぽうと柔らかな火が灯る。同じように少女も少年の手燭へと、自身の松明の火を分け与えていた。二人の頬が赤いのは、おそらく傍らで燃えている火のせいばかりではない。
 ウルグはちらりとイルミナスの手燭を見やる。火は灯っていない。それと同じで、自分の手燭にもまた、淡く揺れる明かりは灯っていなかった。
 松明と燭台。それは火ともし祭に欠かせない、二つの明かりである。
 松明は、中心に焚かれた大きな篝火からその炎を貰い受けるのが主であるため、この祭で重要視されるのは、ほとんどがもう片方の手に持つ、燭台の方だった。
 それもそのはず、この手燭の蝋燭は、心から火を貰い受けたい者の松明から、火を受け取るためのものなのである。
 ——たいせつな者。
 そう、たいせつな者である。つまり、自分がたいせつに想っているのならば、家族や友人の松明から手燭へと火を灯してもらっても、それはもちろんなんの問題もない。そもそも、そちらが本来火ともし祭においての元々の風習だった。
 しかし、時は過ぎ、時代は流れる。燃え盛っていた薪はいつか燠となり、灰は風に舞い上がり、煙はゆっくりとその姿を変え、火は新たな薪へと燃え移るのだ。
 火ともし祭のたいせつな者から火を貰うという風習は、いつしか意中の者から火を貰うという風習として変化し、そしてその姿で今の時代に定着した。
 もちろん、家族や友人から火を受け取る者も未だ多くいるが、しかしそれよりも更に多くが、想い人からどうにかして燭台に火を灯してもらおうと、この星のない夜にその心を熱く燃やしているのだった。
 ——だが、べつに、無理をしてまでこの蝋燭に火を灯す必要もない。
 大体、この祭は、自分たちが今置かれている現状を知りもせず——世界のことも、黄昏のことも、己に宿る力のことすら知ろうともせず、ただ騒ぎ散らしたい者たちが行う、あまりにも浅慮な祭である。そんな者たちの風習に、自分が倣い付き合う必要もない。
 心の中で腕も脚も組んだ自分が、夜深色のソファに腰を沈めて、つまらなそうに片手をひらりとさせていた。けれども、その視線。その視線の向かう先を、自分は厭と言うほど知っている。
 何故ならば、それこそが、こうしてのこのこと祭に出てきた自分がもつ、憎むべき己の弱点なのだから。
「ウルグ。わたし、このお祭りが好きなんです」
 自身の青い視線が向かう先で、少女が透き通るような翠の髪を揺らして笑っていた。
「……君は、祭ならなんでも好きだろう」
「そうかもしれません。ですけれど、このお祭りは……」
 言って、イルミナスはウルグとの距離を正面からぐっと詰めた。彼女の傍らで燃える松明の火が、距離を縮めたことによってウルグの松明へと近付く。いつも自分が火の奥に見出していた夕暮れも、今は遠かった。熱い。おそらく、松明を持つ右の手のひらが熱かった。
「——火ともし祭は、人と人が近付きます。だから、あたたかい。あたたかくて……だからわたしは、このお祭りが好きなんです」
 そう笑って、彼女は自身の松明の火を、ウルグの持つ火の方へと傾げ、その火と火を交わした。火ともし祭での挨拶である。ウルグは心の中で深すぎる溜め息を吐いた後、その唇から微かに息を洩らして、イルミナスから顔を背けた。
「……ま、火のせいだろうな」
「錬金術師さま、少しだけ頭が堅くていらっしゃいますよ」
「姫さまは少々、妄想が過ぎていらっしゃるようだが」
「ふふ、なら、きっとちょうどいいですね、ウルグ?」
「ええ、はいはい、あなたさまの仰せのままに」
 その答えに満足したように、イルミナスはにっこりと頷いた。彼女は今一度振り返ると、大広場に集う火の光と光の間を縫って進んでいく。たくさんの光が彼女を照らし、彼女もまた、その手に持つ火で誰かを照らし出していた。
 火の赤や橙や黄を受けたイルミナスの髪の毛が、淡く翠を帯びた水晶のように煌めいている。どうやら朝が来たように思えた。彼女の立つその場所にだけ、朝が来ていたように思えたのだった。
 ふと、ウルグは人混みの中で、そのまばゆく透明な朝陽を宿す少女へと、緩やかに熱を帯びた目を向ける数人の男がいるのに気が付いた。一瞬だけ自身の歩みが止まる。その視線の色が気になった。向こうの足が動いた気配がする。ウルグはほんの少しだけ、力の込め方を変えた。魔獣と戦うときのそれである。頭上の月が嗤った気がした。好きにしろ。
 ウルグは、魔獣と命を削り合うときのそれとほとんど同じ身のこなしで、広場に集う人々の間を獣の牙や爪をかわすように、するすると慣れた様子で進んでいく。けれども両手にじわりと汗が滲んでいた。だが、どうでもいい。ひらりと月白の色が火の中に舞う。自身の纏うローブに火が付いたとしても、そんなことは最早どうでもよかった。
 松明も燭台も捨て置けないのは、自身もまた、他の誰もと同じように浅慮で、そしておそらく誰よりも愚か者であるからだった。
「——ルーミ!」
 しまったと思ったときには、もう喉から声が溢れ出ていた。
 ウルグの鋭く響いた夜の声に、イルミナスがびっくりして振り返った。もう止まれない。それでもなんとか自分の輪郭を保とうとしたウルグは、その眉間にいつも通り呆れたような皺を寄せ、熱い息を引っ込めるために唇は引き結んで、仏頂面でつかつかと彼女の隣まで歩み出た。
「え?」
 イルミナスの困惑も疑問も聞かず、ウルグは彼女の持つ手燭に、自身の松明で勝手に火を灯した。
 イルミナスの右の手で、蝋燭が柔らかな光を放ちはじめる。イルミナスはますます困惑し、仏頂面をしたウルグの青い瞳を見上げた。さっきまでの焦りは何処へやら、ウルグの目には明らかに楽しげな光が浮かんでいる。
「——これで用は済んだな。戻るぞ、ルーミ」
「ええっ?」
「お遊びはこれで終わりだと言っているんだ、早くしろ」
 言って、ウルグはその踵を返した。
 その際に一瞬、イルミナスへ視線を向けていた男たちの方へ、半ば無意識に自身の目をやる。彼の青い目が閃かせる光が、名も知らぬ男たちのことを貫いた。
 この未だ青年と呼ぶべき男の、灼き殺すようなその視線は、太陽に代わってやはり傲慢に地上を照らそうとする、天上から降る冷たく熱い、月光のようであった。
「——待って、ウルグ!」
 広場を抜け、宿へと向かう道の途中で、ウルグはイルミナスに強く腕を掴まれて振り返った。
「……なんだ?」
「ウルグ、人の話はちゃんと聞くものですよ。まだ用事は終わっていません」
「何?」
「あなたの燭台が、まだ灯っていないもの。これは、火ともし祭、なのですから」
「……いや、結構だ。興味がないのでな」
 そう言って歩を進めようとしても、イルミナスがウルグの腕を掴んで離さない。
 彼女は、その淡く澄んだ翠を纏った銀の瞳で、彼の目を見て少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。悪いことを思い付いた子どもの顔である。出会った頃と変わらない、お転婆な少女の笑顔だった。
「わたしの火を貰って頂きますからね。あなたは勝手に灯したのですから、わたしも勝手に灯します」
「……好きにしろ」
 ウルグがそう呟けば、ゆっくりと彼女の手のひらが彼の腕から離れていった。それからウルグは、渋々といった様子で彼女の前に自身の手燭を差し出すと、けれどもイルミナスはかぶりを振って、自分の指先で、都の高台の在る方角をひゅっと指し示す。
「此処ではだめです」
 夜の空気を纏う、目の醒めるような冷たい風が、二人の間を駆け抜けた。その片方の心臓では、馬鹿みたいな嵐が起こっているというのにもかかわらず!
「高い、処へ」
 ウルグは大広場の光の洪水から抜けてもなお、強く朝を放つ少女の横顔を見やった。
「高い処へ! 風が通って、空と月がよく見える、見晴らしのいい場所へ!——だってわたしたち、高い処に行きたがりなのですから!」
 そう笑ったイルミナスのつま先が、高台の方角へと向かった。
「さあ、火を灯しに往きましょう。ウルグ!」
「……好きにしてくれ」
 もう、火などとっくに灯っていた。火など、とっくの昔に灯っているのだ。月がどんな表情をしているかなど、もうすっかり忘れていた。
「——ああ、仰せのままに!」
 それでもまた、火は灯される。
 そう——何度でも、何度でも。


20171229
シリーズ:『たそがれの國』〈かわたれ星の子ら〉

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