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うみを返せ

 目次

 ――早く世界が終わるといい。
 ラルウ・ハイドラはよく、眠る前にそんなことを考える。理由は分からない。ただ、漠然とそう思うのだった。

 ラルウ・ハイドラ。人魚である彼は海に憎まれたのか、それとも別の彼にはどうにもできない何か――例えるなら神の気まぐれ――のせいなのか、理由はどうであれ生まれながらにして醜かった。
 大きく見開かれすぎている血溜まりのような瞳、毒瓶の中身を引っくり返したような紫色のうねる髪、まだらに全身を覆う濁った水底の色をした鱗、魔物の如く異常に尖った爪、夜に同化する口内には獣の牙に似た犬歯を隠し持っている。
 そんな望みもするはずがない容姿に生まれた彼のたった一人の母親は、彼がこの世界に生まれ落ちた瞬間にこう叫んだらしい。
「――〝ラルウァ〟!」
 それは化け物だとか、はたまた魔物だとかそういった意味合いをもつ言葉だったが、母親があまりにも多く息子にそう呼びかけるものだから、誰もが彼の名前は〝ラルウ〟なのだと思った。驚くべきことに、ついにはその母親でさえもそう思い込み、彼が物心がついたときには、もう彼は名もなき〝ラルウ・ハイドラ〟に成っていた。
 ああ、それもそのはずだ。彼には化け物――〝ラルウ〟以外の呼び名がなかったのだから。


「リーダー。自分のお母さん殺しちゃったって、ほんとうなんですかあ」
 ……眠りに落ちかけた意識を誰かの声が再び浮上させる。リーダー。ラルウにそう呼び掛けた相手は、彼の従順なのかそうでないのかよく分からない部下の一人であった。
 海賊団〈シーサーペント〉、通称〈海蛇〉。
 その存在を知る者は指を折る程度で事足りるほどに少なく、ひとたびその尾ひれを掴めば四肢を切り裂かれ、息の根までも奪われると云われているのが、この海賊団である。
 ラルウ・ハイドラ。彼はその海賊団を取り仕切る頭領であり、団員たちは〝人魚のラルウァ〟――つまるところ化け物のラルウ――そのすべてに服従する。彼らはラルウの狂気に惹かれた、奪いと殺しを愛してやまない狂った集団なのだった。彼らに襲われた罪なき船の残骸が木っ端微塵でなかった日はなく、彼らに襲われ生き残ったという者の存在も今までに一度たりとて聞いたことがない。
 自らの船を持たないこの海賊団の団員は全員人魚で構成されており、普段は魔法で人魚以外に己の姿かたちを変えて生活を送っているらしい。もちろん、このラルウ・ハイドラも例外に漏れず。
「あ……?」
 しばらく声を発していなかったからか、少しばかり掠れた声でラルウは返事とも言えないような返事をする。ラルウに声をかけた団員の一人は困ったように肩をすくめ、繰り返した。
「だから、お母さん殺しちゃったんですかって」
「……急に何なんだよ」
「いやね、リーダーのやり方って痛そうだし、俺はやだなあってふと思って」
「うるさいな……そんなことよりあれ、持って来いよ」
「あーあ。そうやってすぐ話逸らすんですから」
 あれ、と言われて団員が運んできたのは、ラルウの好物の葡萄酒だった。
 奪いと殺しと葡萄。ラルウが興味を示すのは世界でこの三つくらいであり、それ以外のものには驚くほど興味を示さない。自分の容姿を心の底で、いいや心の底から憎んでいるためなのか、彼は身嗜みに気を遣ったり自らを着飾ることはするが、それは好きという感情には程遠いものなのだろう。鏡を前に飾れば飾るほど、虚しさというものは彼の中で降り積もっていくものだ。いやそれは嘲りかもしれない。鏡の中の自分はこちらを見て嗤ってはいないか?
「というかリーダー、ここでお休みになるので? 今日は湖に戻らなくていいんですか? 俺はその辺の水辺に一旦潜って寝てきますけど」
「いいよ、面倒だから。……それに……」
 ――おれは、あの姿に戻りたくない。彼は口の中だけでそう呟いた。
 ラルウは幼少の頃から、醜い自分の姿を変えるにはどうしたらいいのかばかりを考えて生きてきた。そうして、試行錯誤した結果辿り着いたのが魔法の力である。
 火、風、水、地、光、闇の六つの属性魔法が存在するこの世界で、彼が最も得意としたのは闇の魔法だった。
 最初、自らの手の形を人間のもつ手の形に変えてみせた。次に脚。次に胴体。そうして顔に辿り着いたとき、彼にはもうあの醜い人魚の面影はなく、顔に鱗に似た痣がある、ただの人間のようになっていた。手放しに人間というには少しばかり血色が悪く、頬に浮き出た鱗の痣が目立ちすぎるかもしれないが。いいやしかし、それでも人魚の――本来の自分の姿よりは随分ましになったはずだった。
 そう、もちろん完全に人間になることなどできるはずもなく、彼はただ自らの魔力を使い、醜い人魚の自分を覆い隠すだけのかなしい魔法を自らに振りかざしているだけなのである。
 それでも彼は満足だった。母を悲しませるあの化け物を封じ込めることができるようになったのだから。
 ――その魔法の唯一の失敗は、母を手に掛けた後に完成したことだけだった。
「何か言いました?」
「……いや。行くならさっさと行けよ。おまえがいるとうるさくて寝られやしない」
「つれないなあ」
 飲み干した葡萄酒がじりじりと喉の奥を灼くのを感じる。
 自分の闇魔法が完成した後、彼には一つ、気が付いたことがあった。
 彼は母について思い出す度に、すべてを愛してくれなくてもよかった、と思っていた。おれの醜さに嫌悪の気持ちを抱いても構わなかった、とも。醜いだけじゃない、きっともっていただろうおれのあたたかい部分にさえ目を向けてくれれば。そこだけを愛してくれさえすれば、と。
 だが、彼の心とは裏腹に、彼女はラルウの外面的な醜さにしか目をやることができなかった。彼はそれが何よりも、この世の何物よりも哀しかった。
 ――では、自分はどうだった?
 自分を別のものに化かす魔法を完成させて喜び、安堵した自分は?
 皮肉なものだった。魔法を完成させると同時に、自分自身も己の容姿にしか目がいってなかったことに彼は気が付いたのだから。
 ……ああ結局、こんなものなのだ。
 彼は自分にそう言い聞かせ、人間の姿の自分を盾に、醜い人魚の姿で醜い行いをするようになっていった。
「ねえリーダー、さっき何て言ったんです?」
「……何でもいいだろ」
「いいじゃないですかあ。減るもんでもないでしょ」
「――早く、世界が終わるといい……って」
「ええ? 嘘だあ。こんなに楽しいのに」
「……ああ、嘘だよ。早く行け」

 ラルウ・ハイドラが心に抱える海は浅く、そして澄んでいる。
 彼の深く濁った部分をつくったのは、彼を化け物と詰った母が流した一粒の涙だ。その一粒の涙が彼の抱える海に勝り、それがこんなにも深く、どこまでも深いものになるとは彼も、そして涙を流した彼の母親ですら知らなかったのだ。
 いつだって彼は母の涙の奥底に沈んでゆく。温い羊水に還るような気分で今日もまた、朝陽が昇る頃に世界が終わるのを夢想し、心臓の奥で問うた。
 ――ほんとうに終わるべきなのは?


20151024 
シリーズ:『貴石奇譚』〈花まもりの狼或いは名もなき化け物〉

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