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たましいに狼

 目次

 すべての命はいつだって、他の命と引き換えにその命を長らえている。
 その言葉はサラの心臓に突き刺さり、一時は熱く燃え、その火が静まった今でもその言葉は穏やかな熱を身に纏い、サラの血管を血と共に絶えず流れていた。
 瞼を閉じれば、いつだってあの日へと戻ることができる。初めて命の重さを知った、あの日へと。サラは瞼を閉じ、深く息を吸った。
 目を開けると、森の緑が強く香りサラの未だ震える両脚を包み込んだ。右手には祖父がしつらえた弓がひとつ。その隣では継ぎ手のいない村の猟師ドクス――サラには彼が一体今何歳なのかは分からなかったが、相当年を召しているのだろう――が、その皺だらけの顔を更に皺くちゃにして、サラの方へと朗らかに笑いかけていた。
「なあ、サラ。何でおめえ、俺の後を継ごうなんて思ったんだ? こう言っちゃ何だが、猟師なんておまえみたいな嬢ちゃんのやる仕事じゃあないぜ。いくらおまえが馬鹿力だって言ってもな、それとこれとはまったく別のことだ」
「……命、と……向き合いたいと思ったんです。ぼく――あ、いえ、わたしは――命を、ミラという唯一の命を軽んじて見た結果、ミラに……ミラの顔に、一生消えない傷を残してしまった。このままじゃ、ぼくはミラだけじゃない、もっとたくさんの人を傷付けてしまうかもしれない……それは、それだけは……」
 木から木へと、風が流れている。ドクスは少し、溜め息に似た風な息を吐いた後、その朗らかな顔を別人のように引き締めてサラの目を見た。ドクスの瞳の中にある、無数の優しい木漏れ日のような光は今や姿かたちもなく、その目の中に閃くのは獲物を捉えんと空を翔ける鷹の翼。
 今まで幾多もの命を狩ってきた猟師の目を、サラはこのとき初めて知ったのだった。
「命の重さ、ね。――サラ、ついてきな」
 ドクスはそれだけ言うとサラの物より一回りと少し大きい弓と矢を手に、それと鞘に大樹の意匠が凝らしてある短剣を腰に吊り下げて森の奥へと進んでいった。サラはドクスの鷹の目にしばらく圧倒され棒立ちになっていたが、は、と我に返ると急ぎ足でドクスの後を追っていく。
 木から木へと、歩を進める。森は好きだ。サラは小走りしながら森の空気を肺に詰め込んだ。こうして森の中を走っていると、まるで自分が風になったかのような心地になるのだ。己の中の狼の血が、今すぐに森を抜け、丘、いいやそれよりも高い所で空に向かって、高らかに吠え謳ってやりたいと叫んでいる。そしてその狼の血が、己を流れるものと似たような血のにおいと死の香りを捉え、サラの心を狼から人へと引き戻した。
「ドクスさん、もう……?」
 サラの視線の先には、ドクスとその手の中に喉を裂かれ今にも息絶えそうな狼の姿が在った。話で聞くのと、消えゆく命を目の前にするのでは、天と地ほどの差があるようにサラは感じ、一歩後ろへ下がる。そうしたサラへ挑むように、死にゆく狼の瞳がこちらの瞳を捉えた。サラと狼の間を繋ぐように、細い風が吹いては去っていった。
 彼は自分だ、と思った。彼もそう感じただろうか、未だ瞳はこちらを捉えている。狩られ、死にゆき、そして何者かの糧となり、いずれすべての命を廻す者となる彼は、彼であり、わたしであり、狼であり、人であり、生であり、死であり、命だ。彼はわたし、わたしは彼。わたしもいずれは何かに狩られ死にゆくのだ。それは自らの獲物にか、それとも死神とやらにか。そのどこか遠いところで浮かんだ考えが断ち切られたのは、ドクスが狼にとどめを刺したときだった。命の糸が細くなり、遂には千切れ、そして光の粒となって何処かへ還っていくのをサラは心臓の奥で見たような気がした。
「いいか、サラ。狩りというのは、命を戴くというのはこういうことだ」
 そう言うとドグスは狼の亡骸を地面へ下ろし、その己の獲物の皮を躊躇うことも、また容赦もなく慣れた手付きで剥ぎ始めた。肉から皮が離れていく、次いで骨から肉が削がれていく。サラは身震いをした。何か腹の方から上ってくるものを感じ、もはや狼の姿をとどめてはいない狼から目を逸らそうとした瞬間、ドグスの方から鋭い弓矢のような言葉が飛んできた。
「目を逸らすな!――おまえはいつもこうして命から命をもらってんだ、もちろん俺も。俺たち、いいや、すべての命はいつだって他の命と引き換えにその命を生き長らえてる。目を逸らすな、サラ。そして忘れるな、忘れてはならん」
「忘れては……ならない……」
 サラは逸らしかけた目を再び狼の方へと向けた。そうだ、そうだった、彼はわたしだ。彼から命をもらったわたしは、彼の肉により身体をつくり、彼の皮により暖をとり、彼の骨により魔を祓うのだ。そのようにして、彼はわたしとなる。彼はわたしだ、わたしはもはや此処にはいない彼により生き長らえる。目を逸らすな、逸らしてはならない。そして、忘れてはならないのだ。
 己の身体が今までよりもずっと重くなる心地をサラは味わった。鼓動も速まり、両手もぶるぶると震えている。今までもらってきた命たちが、サラの心臓にのしかかってきた。こうして何も知らずに生きてきた自分が、ただ知っているだけだった自分がひどく浅ましいものに思える。生きる、ということは何か他の命を犠牲にすることなのだ。そういう風にしか生きていくことができない己が怖い。同時に、愛しいとも強く思った。命により生かされている自分のことが。――ならばやはり、犠牲になった者たちのためにも強く在らなくてはならない。それにきっと、強くなければ生きてはいけないのだ。
 それからサラは狼の亡骸に触れ、逝った彼へと祈りを捧げ、そしてその骨から肉を削ぐ手伝いをドグスの横でした。己を失いまた得たような、嘆きにも近いその感情が、彼女に流れる血の中に棲む狼の中に渦巻き、その狼は同胞の死を想い、やがて月へと向けて哭いた。木から木へと、声が渡る。その日、彼女は森の中で声の限りに慟哭し、その声を聴いた森の狼たちが、新たにやってくるのだろう朝へと向かって遠吠えをしていた。
 忘れるな、忘れてはならない。記憶の森から戻ったサラは、あの日の狼へと、あの日と同じように祈りを捧げた。そして彼女は一歩を踏み出す。いずれ己となる命を狩りにゆくために。今日、そして明日を生き長らえるために。


20160419 
シリーズ:『貴石奇譚』〈花まもりの狼或いは名もなき化け物〉

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