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 目次


〈第四章〉
黒の子ども




「——美しい人だろう」
 薄く赤茶けた石像を見上げて、感じ入るように老人は隣の少女に語りかけた。
「お祖父さまのお屋敷の奥に、こんな処が在ったなんて……」
「永く、永く、私たちが守り続けてきた場所だ。そしてこの先、おまえが守ってゆかねばならない場所でもある」
「守る——お祖父さま、一体何から守ると言うのです?」
 肩よりも上で短く切りそろえた、真っ直ぐな黒髪を揺らして、少女は老人の方を振り向いた。
 老人は石像を見上げていたその顔を少女の方へと向け、彼女の黒い頭を軽く撫でる。それから目を細めて優しげに微笑むと、再び目の前の石像の方を見上げた。
「天の光から、だよ」
 老人の語る言葉の意味がよく分からず、少女は少しばかり怪訝な表情を浮かべて、その顔を石像の方へと向ける。
「わたしが、守って……」
 ——山奥で細々と日々を送る少女の一族は、少人数の狩猟民族として自然の恵みを狩ってはこんにちも暮らしていた。
 弓、短剣、猟銃、罠——様々な手段を用い、森の生を喰らってきたこの民族は、まだ先日十になったばかりの少女であっても、他と違わずに狩りに参加している。
 そして驚くべきことにこの少女は、自分より一回りも上の大人やいちばん年かさの子どもに交じって、その小さな身の丈で狩りをしているというのにもかかわらず、しかし獣や自然に対して少しも臆した様子を見せなかった。
 それどころか、狩りに参加しはじめてからというもの、少女は一度足りとて狙った獲物を逃したことがなかったのだ。誰の目から見てもそれは、天賦の才と表現するに相応しい才覚であった。
 男児のようななりをして野山を駆け回り、夕暮れ、小さな集落へと戻ったときには、その手に必ずこんにちの食糧を抱えている。そのようにして、少女が狩りに出るようになってからというもの、今日の食糧に困ることがてんでなくなった大人たちは、その大きな手のひらで少女の黒髪を撫でながらこう笑い合ったものであった。
「——まるで、〝レン〟みたいだな!」
 集落の中でいちばん年下の子どもであった少女は、時折自分の方を見やって飛び交うその名前に小首を傾げるばかりであった。
 ——しかし今、その〝レン〟は、どうやら少女自身の前にいるらしい。
 己の祖父であり集落の長老である、今隣に立つ老人の住む茅葺き屋根のこぢんまりとした屋敷の地下には、ほんの少しの光も差さない、小さな小さな石室が一部屋、深い闇を湛えて佇んでいた。
 そしてその石室には、大理石でできた髪の長い女の石像が一体、ぽつんと在るばかりである。老人の持つ燭台の炎が、ぼんやりと石像を照らしていた。
「かつて——私たち人類は陽の光の下、月の光の下、昼夜問わずに天の光の下、血を血で洗う争いを続けていた」
 老人は手燭で石像を照らしながら、少女に向けてそう切り出した。
「その血の流れる量は場所によって様々だったが、いつでも、何処でも、私たちは争っていた。何十年、何百年と、永いこと、永いこと……」
 少女は、老人の口から語られる遥か昔の真実を耳にしても、そこに大して驚きも興味も示さないままに小さくこくりと頷いた。何故ならばそれは、少女にとって遥か彼方の、決して今には続かない昔話だからである。
 少女は淡い炎に照らされる石像から視線を外し、己の祖父の方を見た。
「……ですが、今は違いますよね。お祖父さまの言うことがほんとうだったとしても、わたしたちは今、人を相手に争ったりはしない」
「歴史というものは、いつでも正しいことから破り捨てられていくものだ。……これは、ほんとうの話だよ」
 言葉を切って、老人は少女の方を振り向いた。
「そして今は、争い合う相手が変わっただけだ。私たちが無意味に命を奪い、奪われていることには変わりない」
「しかし……それが生きるため、なのではないでしょうか」
「そうとも。すべてがそうだ。そしてきっと、かつての争いでも、誰もがそうであったのだ」
 老人の手燭が、石像の衣を纏うその身体よりも更に上を照らし出した。
 そうして火に暴かれたのは、石像の女の端正な顔。
 石の彼女は長い睫毛を伏せるようにして、その美しいかんばせに女神のような微笑を湛えており、弧を描いた薄い唇からは今にも慈愛の言葉が零れ落ちそうである。
 ただ、彼女のその微笑みは、しかしどこか遠くを見つめているようにも少女には見えた。
「——人の魂というものは、二つの〝イシ〟から成ると云われている。一つ、その魂のかたちをつくる石。一つ、そしてその石の内側へと宿る意志。この二つが揃って初めて、人の魂は成ると。一説では、その魂の石によって、自分が世界から力を借りられる〝もの〟が定められ、その内側に宿る意志——己の心によって、世界へと呼びかけることができるのだとも」
 少女は限りなく続いていきそうな祖父の話に、内心で小さく溜め息を吐いた。
 こういった小難しくて肩の凝るような話は、どうにもいまいち好きになれない。いいや、非常に苦手だと言っても全く過言ではなかった。できることなら今すぐ踵を返し、地下から地上へと繋がる階段を駆け上っては野山へと飛び出していきたいと思う。
 けれども少女はその心をなんとか抑え、祖父の小難しい話へと耳を傾けた。
「——古来より、人が石を遣って人像を作ってきたのも、そういった謂われのためだと云われている」
 少女の祖父はそう言って手燭を掲げたまま、空いている方の片手で目の前の石像全体を指し示してみせた。
「此処に、魂の器が在る。その器に、遠く旅立ったかの者の意志が再び宿れば、かの者は再び生者としてこの大地を歩むことができるだろうと——そう、かつては信じられていたのだろう」
「再び息を吹き返してほしいと乞われるほど、偉大な人物だったということでしょうか」
「おそらくは。……そして今、目の前に在るこの石像も、かつてこの地で声高く謳われた者の英雄像だ」
 老いた手のひらが持つ手燭の炎が、この世のものとは思えないほどに美しい笑みを湛えた英雄像のかんばせから離れ、彼女が纏う衣の上を滑るようにして段々と像の脚の方へと向かっていく。
 そこで少女は初めて、この像のもつ異質さに気が付いたのだった。
「私たちは今だからこそ、山奥で狩猟民族として生をおくっているが……しかし、遠いいにしえの時代には——闇より出でては闇の中へと人を屠る、小さな王国に仕えた暗殺部隊だったのだ」
「……暗殺……」
「永い時を経て、もうほとんど遣い方を忘れたからか、その力も随分と廃れたものだが……私たちの先祖は音もなく現れ、音もなく相手の息の根を止め、そして音もなく去ることができたのだと云う。そういう力を、世界から借ることができたのだと。——私たちはそんな先祖たちのことを、〝おとなしの民〟と呼んでいる」
 今まさに燭台の火に暴かれているのは、そんなおとなしの民の、闇と血だまりの中に在る、悲しき魂のかたちだったかもしれない。
 かつて英雄と呼ばれたのだろう石像の彼女は、女神のような微笑をその端正な顔に浮かべながら、しかし左手の親指は腰に差した軍刀の鍔に、右手は今にも刀の柄へと掛けようとしていた。
 瞬きでもしようものなら首を刎ねられる——そういった威圧が、軍刀へと彼女が手を掛けようとしているところを認めた途端、少女に覆い被さるようにして迫ってきた。逆に言えば、彼女が得物を手にしているとこちらが気が付くまでは、その殺意は完全に闇の中へと潜められていたのだ。
 目の前に在るのはたかが石像であるというのにもかかわらず、少女の背中にはじっとりと嫌な汗が滲んでいた。
「かつて自分たちが仕えていた王国が没したときも、音もなく姿を消すことのできるおとなしの民だからこそ、王国と運命を共にせずに済んだのだと云われている。この英雄像は、そのおとなしの民の中で最も暗躍したとされる、レンその人の像だ」
「……レン……」
 少女は、ぼんやりと火に映し出されるレンの石像を今一度、足先から頭まで順番に見上げてみた。
 ふと、レンが腰から下げている軍刀の黒い鞘が、祖父の持つ手燭の光によってぬらりと白く光ったような気がする。
「民の中でも最も深く闇に潜み、狙った獲物は決して逃がさない——そういった才有る者のことを、おとなしの民らは敬意を込めて〝黒〟と呼んだ。そして、幼い頃より暗殺者として死屍累々の成果を上げ続けたレンは、物心ついたときにはもう、周りから〝黒の子ども〟と呼ばれていたそうだ」
 暗闇の中で、燃える炎が小さく震えていた。
「——ああ、それとな、彼女は長く美しい黒髪をもっていたらしい……」
 感慨深そうに石像を見上げながら、祖父は短い黒髪の少女に語りかける。
「黒の子ども——レンはちょうど、おまえに似ているかもしれないな」
 その言葉に、しかし少女は短くかぶりを振った。
「わたしは……食べていくために獣は狩っても、人を殺すことなど致しません」
「そう——魔獣でもない人と人が、黒い闇の中で殺し合うことなどあってはならない。だから私たちはこうして守り続けているのだ、かつての血塗れた歴史を。殺し合うための手段を、力を此処で守り——いずれ、自らも忘れてゆけるように」
「手段? 力? しかし此処には、レンの英雄像しかないように思えますが……」
 言うと、祖父の手燭の炎が揺らめいて、少女の未だ幼い顔を照らした。少女はその光に思わず祖父の方を見上げたが、地下の暗闇と蝋燭の淡い光の狭間に在る祖父の瞳は、しかしどこか悲しげに少女の目に映る。
 それからほどなくして祖父の持つ明かりは、レン像の軍刀の部分へと緩やかに移動していった。
 そこでは、大理石で作ったにしてはあまりにも出来の良すぎる黒色の鞘が、赤橙の光に照らされてぼんやりと淡く輝いている。
 少女がこれはほんとうに石づくりの軍刀なのだろうか、と思わずそのまだ小さな手のひらを伸ばすと、隣から音もなく祖父の腕が伸びてきて、少女のその手が鞘に触れる前にぱしりと掴んだ。
 振り向くと、祖父が目を瞑ってゆっくりと首を左右に振っていた。
「確かに、おとなしの民がかつて世界から借りていたという力の遣い方を、私たちはもうほとんど忘れた。けれども手段は——殺しのための術は、未だに此処に存在するのだ」
 祖父は少女には視線をやらず、目の前の軍刀を見つめたまま言葉を繋いだ。
「この軍刀は、呪われている」
「……では、やはりこの刀は——」
「——そう、これはレンの軍刀。何百、或いは何千もの人を殺した刃だよ。紛れもなく、本物だ」
 祖父の言葉に小さく息を吐いて、レンは軍刀を見つめていたその視線を彼の方へと向けた。
「呪い……というのは、つまり、魔術が掛かっている——そういうことでしょうか」
「この刀は、こうやって何百年もの間放っておいても錆びもせず、折ろうとしてどれだけの力を込めて叩いたとしても、決して折れることがない。刀身に何かしらの魔術、或いは錬金術で錬成した特殊な素材が遣われていることは確かだろう」
 祖父は、嘆息混じりに小さくかぶりを振った。
「……だが……私の言っている呪いというのは、そういう明確な理由の在るものではないんだよ」
 少女を抑えていたその手の力をゆっくりと緩めながら、祖父は手燭の火を更に軍刀へと近付ける。けれども自身はその黒鞘に決して触れようとはしなかった。
「これは、かつておとなしの民に伝わり、黒へと与えられた呪われし軍刀——血を求める刃だ。この刀を手にした者は皆、さながら獣の如くに血に狂う。レンもまた、この刀に狂わされた黒の一人——黒の子どもだと云われているのだ。そう、その最後の一人だと……」
 祖父が少女の方を振り向く。皺だらけの顔を微かに歪めて、彼はどこか切なげに言葉を紡いだ。
「人の姿のまま血に狂っていた彼らは、しかし、ともすると——魔獣と化していたのかもしれないな、とっくの昔に……」
「……レンや他の黒が血に狂ったのは、すべて、この軍刀が原因なのでしょうか?」
「最早遠い時代の話だ。これがすべて、と断言することはできない。だが——確かに、元凶は此処に在る」
「元凶……」
 少女が小さく呟くと、祖父はその声を拾い上げて、しかし自分は声もなく微かに頷いた。
「これは武器だ。そして、武器とは戦うための術。武器が手に有れば人は戦え、なければ戦うことはできない。術を手に、人というものは動く。そしてその術は、強大で強固となるほどに、それに比例した力を呼ぶだろう。武器という術がどのような力を呼ぶか——それはもちろん、戦争という力だ」
 祖父は落ちくぼんだ目を見開き、少女の瞳をその揺るがぬ視線で捉えて離さなかった。石室に、老人のしわがれ声が、しかし固い熱をもって響いている。
「戦うため……殺しのための術が、その武器が——すべてを滅ぼし合う争いを呼び出すのだ」
 けれども祖父のその声は、その視線は、ほんとうに目の前の少女に向けられたものだっただろうか。
「たかが軍刀一振りに、大袈裟だと思うだろう。けれど、この刃が一体どれだけの命を奪ったと思う?」
「お祖父さま……」
「おまえの両手両足の指では、到底足りようもない」
 言って、祖父は石像の前で踵を返した。
 こつ、と一歩を踏み出した祖父に置いていかれぬよう、彼の持つ炎の灯を頼りに、少女もまた祖父の後へと続いた。
「私たちは、おとなしの民たちが刻んだ、赤黒い道の上を歩いてはならない。血に狂う黒の獣となって、その道の上を往くことは赦されない。そのためには血の朝焼けに呪われたこの刃を、未来永劫、誰の手にも触れさせないことだ。誰の手にも」
 揺らめく赤に照らされて、祖父の老い褪せた瞳が、白く闇に浮かび上がっている。
「陽の光、月の光、天の光のすべてから守るのだ——この闇の中で、永遠に」
 そう己に誓うように呟く祖父の後ろで、少女は一度だけ背後の石像を振り返った。
「——はい、お祖父さま」
 少女が振り返った先に在ったのは、しかしどこまでも続いていきそうな昏い闇ばかりだった。


20170819 
シリーズ:『たそがれの國』〈失せ物探し〉

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