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誰そ彼

 目次

 さて、アインベルとリトの間で自分が話題の中心になっていることなど露知らず、イリス・アウディオは、自身の拠点である商業都市〈ルナール〉の街の入り口——白っぽい灰色をした石造りの門へと続く、〈ルナール〉のこれまた白っぽい灰色をした石造りの大橋を、相棒——と彼女は勝手に呼んでいる——のヴィアに乗って、大急ぎで駆け抜けていた。
 〈ルナール〉は國きっての商業の盛んな都市であるため、商人の出入りが激しい。馬車や荷車や人が数多く通るこの大橋で、物凄い勢いで駆けてくる黒い馬に、人々はぎょっとして身を橋の隅の方へと寄せる。
 そんな人々にイリスは心の中で謝りながら、門を越えると、流石にこの先は道が狭くなり、人通りも更に激しくなるため、彼女はヴィアの上から石畳の上へと降り立った。
 決して長くはないが、しかし短くもないだろう時間の中、様々な冒険を共に行ってきた相棒は、小さき町〈クローリク〉の外れで魔獣貸しを営んでいる、イリスの友人から借り受けている魔獣であった。
 古い言葉で〝息吹〟を意味する、〝アニマ〟という呼び名をもったこの生き物は、賢く、そして風のように速い、月のない夜空のような黒をその毛並みで表現する、美しい馬の姿をした魔獣である。
 長い睫毛の下に隠れる、黒曜石のような漆黒の瞳は、いつも静かにイリスのことを見つめていた。この相棒と駆けながら見上げる夜の空、黒の中で流れゆく星々の姿は、駆けゆくときの光さざめく相棒の毛並みによく似ている、とイリスは想う。
 そしてイリスは、このアニマを、借り受けたはじまりの日から今の今まで、親しみを込めて〝ヴィア〟と呼んでいた。
 ——その意味は、いにしえの言葉で、〝道〟、である。
 虹色の電氣石のような色合いをもち、さながら蛋白石の如く、夢のように揺らめく首巻をはためかせながら、イリスはヴィアの手綱を引いて、なるべく人通りの少ない道を一直線に駆けてゆく。
 イリスの長靴とヴィアの蹄は、馬車の走らない通りで、小気味好い音を石畳の上に響かせていた。
 そうしてしばらく硬い道の上を走り抜けると、このじゃじゃ馬と魔の風を喰った馬は、目の前に現れた角を右に曲がり、今しがた駆けた通りよりも幾分狭まった道を更に駆けた。
 すると、すぐに道の方へと向けられた、壁掛けの看板がイリスの瞳に飛び込んできて、彼女は思わずにやりとする。
 ——〝ギルズ・バー〟。
 流れの速い川を簡素に描いた絵の上に、またしても簡素な文字でそう書かれている看板は、〈ルナール〉に在る酒場の一つで、トレジャーハンターが仕事探しや情報交換に集う、ハンター溜まり場の一つだった。
 ギルズ・バーとは前時代、〝かわたれの時代〟の言葉であり、現代としては〝渓流亭〟という意味の店名だが、実際のところそれは後付けで、元々その名を付けた理由はといえば、店主の名前をただもじっただけである。ちなみに、店主の名前はギル・バーズアイといった。
 銀灰色の道に立ち並ぶ、深い緑の萌葱色や夜の入りのような濃藍の色をした、石造りの家々。打ちっぱなしの灰色をした家も所狭しと立ち並ぶこの街の、酒場であるにもかかわらず、人通りの少ないちょっとした道の外れに店を構えるのが、このギルズ・バーであった。
 黒い木壁に、白木の扉、一つだけ掛かった角灯と、看板同様簡素な造りをしているこの酒場は、イリスにとっても、また〝ポロロッカ〟たちにとっても、旨い飯と美味い酒と気の置けない店主のいる、居心地の好い場所だった。
 つまり此処は、どのギルドにも所属していない、流れのハンターである彼らが仕事をする上の拠点であり、困ったときの駆け込み寺でもある。
 イリスはヴィアと共に渓流亭の扉の前に立つと、まだ日も高いため準備中と掛かっているその札も無視して、勢いよくその扉を開けた。ギルが、準備中も店の扉に鍵を掛けない主義なのは知っている。
「——マスター! 〝言葉〟、出しておいて!」
 扉を開けてそれだけ言うと、イリスはまた勢いよく扉を閉めた。扉に掛けられた小さな鐘が暴れながら音を出す。
 不躾な客を追い返そうとこちらを振り返っていたギルの、突然響いたイリスのそれなりに大きな声にびっくりしていた顔が、扉を閉める直前に視界へと入ったが、謝るのはとりあえず後だと、イリスは酒場の裏の厩にヴィアと共にまわる。
 べつに厩になんて繋がなくても、賢いわが相棒は逃げ出して暴れたりはしないのだろうが、此処は一応街中なので、ヴィアを裏手の厩へと繋いだイリスは、ちょっと待っててと賢い相棒にそう告げ、裏口の勝手口から酒場の中へと転がるように入り込んだ。
 そうして店の厨房を通り抜け、ギルの立っているカウンターの内側へと続く扉を開けると、そこから彼女はひょっこり顔を出す。
「マスター!」
「うわっ!——なんなんだよ、お前は! あっちからこっちからやかましいな!」
「ごめんなさい!」
 自分の張った声につられて、また声を張り上げて勢いよく謝ったイリスに、この初老の店主ギルは微妙に面食らっていた。
 イリスはヴィアと共に全力で駆けてきたために、肩でぜえぜえ息をしながら、カウンターの内側から外側の店内へと出ていく。それから手綱を引くためにはめていた黒い革手袋を外して、カウンターに放り投げた。
 すると——ふと、目の前に水の入った硝子杯が差し出される。彼女は今度こそ疲れて掠れた声で礼を言いながらそれを受け取り、相手の顔もろくに見ずにその水を一気に飲み干した。
「あ、ありがとう……」
 きんと冷えた水が喉を潤し、絶妙に生き返る心地を味わいながら、口元を拭ってイリスはカウンターにそのグラスを置いた。彼女のその様子に、カウンターの中から声がかかる。
「俺じゃないぞ」
「……え?」
「だから、渡したのは、俺じゃないってんだ。お前がすぐ気付かないなんて珍しいな」
 言いながらギルは、顎をしゃくってカウンター席に座る人影を示してみせた。
 イリスが彼の示した方向に顔を向けると、なるほど確かにそこには見覚えのある人間が椅子に座り、こちらへ向けて軽く片手を上げている。
 けれどもイリスは驚いたようにぱちぱち瞳を瞬かせると、ほとんど固まったようにそちらを向いたまま、零れるように言葉を発した。
「あれ——ハイク……?」
「おいおい。あれ、ってのは、ちょっとばかし酷いんじゃないか? イリスのねえさん」
「あ……ごめんなさい。わ、分からなかった……」
 当惑するようにそう呟いたイリスは、自分が彼に気付かなかった理由が、どうも急いでいたことにあるわけではないような気がして、それを探るようにじいとハイク——ハイク・ルドラの顔を難しい顔で眺めやった。
 高い位置で結ばれた長い、嵐に巻き上がる灰のような色をした彼の髪は、今日も前と会ったときと変わらずに、あちこち飛び跳ねている。ハイクの前髪は、その一房だけが白く染められているが、これは出会ったときからそうだった。瞳は相も変わらず鋼玉に似ていて、今日はなんだか、色を秘めた光がその奥に底光りしているように、イリスは思った。
 ふむ、と親指を口元に当てて、イリスは一歩を後ろに下がった。
 常日頃から世界に熱を借りて生活しているイリスは、その身の内側に滾る炎のような熱を宿している。つまるところ、彼女は人と比べてやたら体温が高く、そのときの感情によっては異常とも言えるほどにその肌から熱を発する。
 そのためイリスはどうしようもない暑がりで、年がら年中薄着であるのだが、それに比べてハイクは今日もそれなりに厚着であった。つまり、ハイクの見た目に何かの変化があったわけではない。
 イリスが人のことを、その紅の瞳でじろじろ見るのはいつも通りのことではあったが、ハイクの表情が流石に苦笑いになってきたため、彼女はその視線を彼から外して一息置いた。しかし、すぐに視線をハイクへと戻すと、少しだけその目を細めて、彼女は小さく頷く。
「少し、変わった。たぶん——いい方に」
 しかし、その何かが上手く掴めないために、いつもならば詠うようにすらすらと紡がれるイリスの言葉が、今はあちこちいろんなところにぶつかっていた。
「ええと……なんていうのかしら、そうね……だから、つまり……」
 言葉が行ったり戻ったりしているイリスは、しかし或る地点でふと、ぴんときたように指を軽く鳴らした。
 その感触に、イリスは鮮やかな赤い瞳をちかりと煌めかせると、ハイクへと向けて片手を差し出し、たいせつなことを言わんとする者が皆そうするように、大きく息を吸った。
「——〝はじめまして! また会えて嬉しいわ!〟」
 それは、古い旧い言葉だった。
 イリスが発したその言葉は、かわたれの時代より遥か昔、まだ人類すらも生まれていないはじまりのはじまりに、はじまりと共に生まれ、はじまりの言葉を紡いだ生命——〝のべつの竜〟が発していたと云われている、すべての源泉、その源泉となった言葉だった。
 カウンターの内側で、全く聞き慣れない言葉を耳にしてぎょっとしている店主ギルをよそに、イリスは自分が、思ったよりも原初の言葉を上手く口にできた喜びを心の中で噛み締めていた。
 ギルと似て、少しばかりその動きを止めていたハイクが、イリスがゆるゆると差し出した片手を動かしたのを見て取って、ようやくその手を握り返す。
「久しぶり。声の人、ハイク!」
「——ああ。久しぶり、水のねえさん」
 イリスは握り返された手に、ぐっと力を込めると、自分が発した言葉の舌触りが未だ心地好くて、小さく笑い声を洩らした。それから彼の手を解放し、ぽかんとしているギルの方を見やる。
「なんだ、今の? おいイリス、今お前、なんて言ったんだ?」
「大昔の言葉よ、マスター」
 言いながら、イリスはカウンター前の席に座り、ギルがイリスに言われて店の奥から引っ張り出してきた〝言葉〟たち——大量に重ねられた羊皮紙の山の、そのいちばん下の方から、一枚ばかりを引っ張り出してはカウンターの上に広げた。
「なんて言ったか、知りたい? だったら、お勉強」
「いやいい。眩暈がする。お前は考古学者にでもなるつもりなのか?」
「宝探しと考古学は、切っても切れない深い縁があるの。中でも、昔の言葉には特に。さっきのは……勉強の成果を、ハイクとマスターに自慢したかっただけ」
「ああ……なんだったっけか……〝すべての言葉が知りたい〟?」
「そう。別れた魂と、また巡り合えたそのときのために」
 頷きながら、イリスは大量の羊皮紙を前にして軽く唸った。
 重ねられたすべての羊皮紙には、びっしりと黒いインクで文字が書き連なれている。これらの羊皮紙に書かれた文字は、イリスが一か月ほどで集められるだけ集め、彼女自らが手を黒くして羊皮紙に綴った、東西南北に伝わる古今の言葉たちであった。
 現代はともかく前時代では、世界中で様々な種類の言葉が、様々な意味をもち、様々な文字のかたちをして無数に溢れていたと云われるために、すべてには程遠いが、しかしそれでもかなりの言葉が今、この小さな酒場のカウンターの上には積まれていた。
 イリスは先ほどその言葉の山から引っ張り出した、一枚の羊皮紙に視線を落としながら、ふっと微笑む。
「……オレハを起こす言葉も、世界の何処かには在るかもしれないもの」
 イリスの呟きにギルは何も言わずにただ頷くと、腕を組んで疲れたような溜め息を吐いた。
「それで、今日はなんなんだ?」
「私は、〝真なる言葉〟を探しにきたわ、マスター。そういえば、ハイクは今日はどうして?」
「俺? 俺はまあ、これ」
 言って、ハイクは自分の目の前に置かれている、空になった皿へと視線を向けた。曖昧に言ったハイクの言葉を、ギルが引き継ぐ。
「美味そうな菓子ができたんでな。メニューに加える前に、てきとうに誰かに味見をさせようと思ったんだが、準備中だったんで、たまたま店の近くを歩いてた坊主をとっ捕まえて食わせてた」
 その言葉に、イリスがじっとギルを見つめた。
「……マスター」
「お前のはない。というかもうメニューに入れたから、食いたきゃ金を払うんだな」
「……」
「がきか、お前は……」
「いいわ、今日は仕事をしに来たんだもの……」
 しょげたように呟きながら、イリスは丸椅子をくるりと回転させ、両手で羊皮紙を広げた。
「真なる言葉が必要なの。もしかしたらこの中に在るかもしれないから、二人とも手伝って——と言いたいところなのだけれど、なんだか……こうして目の前にしてみると、この中にそれはない気がする。此処まで来て、なんだけど……」
「真なる言葉っていうと……そのまま真実の言葉って意味なのか、イリスのねえさん?」
「そうだと思うわ。〝嘘もなく、偽りもなく、感情の波紋を浮かべることもなく言葉にできる——泉に落ちる、清らかな朝露の一滴のような澄みきった言葉、ただ、そのものの本質だけを紡ぐことができる、そういった真なる言葉〟、だそうよ」
「はあ、えらく抽象的だな」
「嫌いじゃないでしょう? その方が燃えるわ」
 イリスはハイクの方を向いて口元に弧を描かせると、先ほど引っ張り出した羊皮紙をその視線で示す。
「怪しいのは、のべつの竜、ウロヴォロスがこの世に息づくものすべてに与えたとされる、はじまりの言葉。でも、それは少し、数が多すぎる。絞り方もよく分からないわ」
「ウロヴォロスって言うと……名前を与えた、竜、か」
「そう。私たちが生まれるより、ずっと前からこの世に在るものたちに、名前を与えた竜」
 頷きながら、イリスは羊皮紙に並んだ原初の単語たちに、じっと視線を注いだ。
「名前というものは、たいせつなものね。この世界に生まれてから初めて、誰かから貰う、いちばんはじめの贈りもの。ずっと消えない、宝もの、ね」
 言うと、イリスはその指先で、羊皮紙に綴られた単語の一つを指し示し、そうしてその瞳に楽しげな光を宿した。
「たとえば、このはじまりの言葉は、〝駆けゆく者〟、という意味。そしてこっちは、〝切り裂く者〟。これは、〝歌い上げる者〟。〝包み込む者〟。〝燃え盛る者〟。〝芽吹き続ける者〟——」
 詠うように読み上げるイリスの指先が、次の単語でつと、その動きを止めた。
 それは、いつの間にやら厨房に引っ込んでいたギルが、両手にフレンチトーストの載った皿を持って、自分の前に現れたからだった。イリスが目を瞬かせると、ギルは意地の悪い笑みをその顔に浮かべ、にやりとする。
「俺がつまむ用に作ったんだが、どうも作りすぎた。仕方ないから、そこの腹ぺこにくれてやる」
「マ、マスター……!」
「お前も若いんだから、まだ入るだろ? ルドラの坊主」
 口角を上げながらそう言って、ギルは二人の前に一枚ずつ、フレンチトーストの載った皿を置いた。溶いた卵と牛乳がよく染み込んだ、分厚い食パンに、とろりと掛かったメープルシロップが店内の照明に煌めいている。
 ポロロッカからも食いしん坊認定されている腹ぺこイリスは、間髪入れずに更にフレンチトーストと一緒に載っている小刀と突き匙を取り上げると、いただきますと嬉しそうに言って、湯気を立てて輝いているフレンチトーストを切り分けた。
 イリスは元々表情の変化が分かりにくい方だが、それでも明らかに今の彼女は、うきうきとにやけきっている。
「あ、美味い」
「今、生きてるって感じがするわ……」
「甘いけど、しつこくないな。ギルのおやじ、これもメニューに入れられるんじゃないか?」
「いくらでも食べられる……」
 噛み締めると同時にじゅわりと広がる熱くて、しかし優しい甘味に、イリスは至極まともに感想を述べているハイクの隣で、それなりに支離滅裂な感想を呟いていた。
 イリスが、鼻を抜けるメープルのどこか懐かしい香りにつられるようにして、もう一つ、もう一つとフレンチトーストを口に運んでいる内に、気が付けば彼女は、物凄い速さで切り分けたトーストを完食してしまっていた。
 一抹の寂しさと共に舌の上に残る、甘くて心地好い余韻をしばらく味わってから、彼女は両手の食器を皿の上に置く。
「ごちそうさま。美味しかった、すごく」
「……え、もう食べたのか」
 横でトーストを口に運んでいるハイクが、イリスの空になった皿にちょっと呆れたまなざしを送った。それと同じようにカウンターの内側から、ギルもまた溜め息混じりにイリスへと声をかける。
「そんなに焦らなくてもな、フレンチトーストは逃げない」
「いいえ、逃げる」
「いやいや」
「熱は逃げるわ。熱いものは、熱い内に!」
 そう拳を握って二人に力説するイリスに、ハイクとギルは顔を見合わせて、少しばかり肩をすくめた。それからギルは軽く首の後ろを掻くと、目元の皺を深くして、どこか困ったように笑う。
「〈星の墜ちた地〉の次は〝真なる言葉〟、お前は昔っから、わけの分からないものばかりを探すんだな」
「そのわけの分からないものばかりを探す私に、いつもギルは甘いわ」
「これでも厳しくしてるつもりなんだがな」
「……本気で言ってる?」
 小さく微笑みながらイリスは、そういえば自分がハンターとしてこの酒場を使いはじめた頃から、ギルは自分に良くしてくれていたことに、ふと思い至った。
 物心ついたときにはもう真っ赤だった自分のこの目を、ギルはさして怖がることも、厭うこともせず、ハンター仕事に不慣れな自分がしっかり一人立ちできるよう、この〈ルナール〉の外れでいろいろと手を回してくれたのだ。
 そんなイリスの心を知ってか知らずか、ギルはイリスと、それからハイクの方を交互に見やってにやりとする。
「俺の一人目の子どもは、上手いことこの世界に生まれることができなくてな。まあ、それももう大分昔のことだが、もしあの子が今日まで元気に育っていたら、ちょうど……お前らくらいの、年、なんだよ」
 そうして息を吐くと、ギルは半ば呆れたように、乾いた笑いをその場に落とした。
「親ってのは、なんでもいいんだよ。がきの目がやたら赤かろうが、前髪を何色に染めようが、元気に育ってくれるんだったらな。……ま、俺だったらハンターなんて危なっかしい仕事、子どもにゃさせねえけどな。現に、次男は此処の給仕だろ?」
「……一生通うわ、マスター……」
「そいつは有り難いが、ちゃんと営業時間内に通えよ」
「それは無理かも」
「あのな」
「わけ分からないもの、いろんな時間に探してるから」
 やれやれとかぶりを振るギルに、イリスはその赤い目を細めて、今まで自分が歩んできた旅路を想い返すような表情をした。
「なんだか分からないものを、知りたいと思って探すのは、自分の心に引っかかるからよ。一見して意味の不明な、得体の知れないものでも、自分の心に引っかかるということは、自分にとってそれが必要なのだという証。そういうものにこそ、存外たいせつなものが隠されていたりするし、それを探す旅路にも、自分にとってたいせつなものが落っこちていたりするものよ」
 微笑みながら、少しばかり目を伏せてそう言葉を紡いだイリスは、ふとハイクの方を振り向くと、鮮やかな紅の瞳を煌めかせて、どこか得意げににっこりした。
「ね、ハイク、そうでしょう?」
「……ああ。——そうだな」
「ほらね、マスター!」
 イリスは嬉しそうにそう言って、ギルに向けて、自分の額近くから片方の手のひらをぴっと振り下ろした。それと同時に片目を一瞬だけぱちりと瞑る。
 しかし、その様子を見たギルは、どこか生ぬるい視線をイリスに送った。
「おい……それ、何処で覚えた?」
「もちろん——」
「いやいい、もう分かった。いいか、連中の真似をするのはやめなさい。ちゃらちゃら振る舞うのは許しません」
「……」
「お前はただでさえ行動がやかましいのに、連中のうるささまで取り込んでどうすんだって話だよ!」
 声を荒げるギルの近くで、ぶはっと息を吹き出す声が聞こえてきて、二人は同時にそちらを振り向いた。そうしていっぺんに視線を向けられたハイクは、空になった皿を前に、ひらひらと片手を振る。
「どうぞ、続けてくれ」
「……マスター、私、真なる言葉を探すのに戻るわ」
「そうだな、それがいい……」
 疲れた表情で二人分の皿を下げ、洗い物をしに厨房に向かったギルの背中を見送って、イリスは仕切り直しだと、カウンターの前で腕を組んだ。それから、何か意見を求めるようにハイクの方へと視線を向ける。
「……真なる——真実、というのは、物事の本質……だよな。そして、俺が思うに、物事の本質というものには、いつも血が通っている」
「そうね。物事の本質には、誰かが生きた軌跡が在る。そして何故か、歴史はそういう本当のものから姿を消していく」
「誰そ彼、ってやつだな」
 頷きながらイリスは、心の中に何か波紋が広がっていくのを感じていた。
 誰そ彼。
 黄昏。
 たそがれ?
 彼女は自分の心臓が火を放ち、そこより少し下辺りが熱くなるのを自覚すると、カウンターに向けていた身体を勢いよくハイクへと向け、それから見る人によれば、ほとんど睨んでいると言っても過言ではないほど鋭いまなざしで、彼の瞳を見やった。
「竜より後に生まれた私たちは、自分たちのはじまりの言葉をもたない。のべつの竜が与えたとされる、原初の名前をもたない」
「あ、ああ……?」
「だけど、名は在るわ。私はイリス、あなたはハイク。それは私たちが生まれたときに与えられる、私たちのための、いちばんはじめの言葉。いわばそれが、自分の名前こそが、私たちにとっての原初の言葉なんじゃないかしら。のべつの竜に名を与えられたすべてのものが、そうであるように」
 前のめりになり、身振り手振りを交えながらイリスは、自分の中に逆巻く言葉の奔流を、なんとかかたちにしようと必死になった。
「弟が言っていたの——召喚術は、自分が喚びたいものへと、言葉を届けてこちらまで来てもらう術。喚び出したいものの、そのはじまりの名前が分かるなら、のべつの竜をかたどった正円の中に、その名を刻むだけで十分だけど——でも、のべつの竜が与えたはじまりの言葉を、呼びかけたいものの名としてぴったり言い当てることは、常人には不可能だわ。あまりにも数が多すぎるから。
 ……だから、その名前に匹敵するように、竜より後の人の時代で枝葉が伸びた言葉をたくさん集めて、喚びたいものの本質を表すように、円の中にも外にも敷き詰める。そうして呼びかけたいものに呼びかけるの。それが召喚師の呼びかけ言葉。そう考えると……」
 足りない呼吸を落ち着けるよう、息を吸ったり吐いたりした後に、イリスはその紅でハイクの目を見やった。
「——〝ハイク〟」
「え?」
「……うん、やっぱりそうだわ。名前というものには、力が有る。すべての言葉を司るとする、すべてのはじまりの竜が与えた名前には及ばないかもしれないけれど、それでも、人が子に最初に与えたこの言葉には、力が有る。〝ハイク〟は、ハイクを表すと、私は思う」
 そう言い切ると、イリスは長老の屋敷で彼から聞いた、真なる言葉を表すしるべを、今一度この場で復唱した。
「——〝嘘もなく、偽りもなく、感情の波紋を浮かべることもなく言葉にできる——泉に落ちる、清らかな朝露の一滴のような澄みきった言葉、ただ、そのものの本質だけを紡ぐことができる、そういった真なる言葉〟」
「……それって、つまり」
「ええ、つまり、そういうことよ。……それに、私が人の名前を呼ぶのが好きな理由も、これで分かった」
「と、言うと?」
 訊かれて、イリスは立ち上がり、ギルが厨房に引っ込んでいるのをいいことに、片手をひょいとついてカウンターを跳び越えた。イリスの背中でひらりと虹色の首巻が宙に舞い、そしてそれは、さながら蛋白石のように無数の色で光さざめく。
 それから彼女は、厨房の方からまだギルが出てこなさそうなことを確認すると、ハイクへと向けてぱちりと片目を瞑り、そうして片方の手のひらを柔らかく振った。
「——その人の姿が見えるからよ、ハイク!」


20171018 
シリーズ:『たそがれの國』〈失せ物探し〉
※ハイクさん(@hiroooose)をお借りしました!

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